Dr. TAIRA のブログII

環境と生物、微生物、感染症、科学技術、生活科学、社会・時事問題などに関する記事紹介

認知の霧の中にいるという米国人が増えている

カテゴリー:感染症とCOVID-19 (2023年)

今朝、コーヒーを飲みながら、ウェブ記事を探索していたら、New York Times(NYT)の記事 [1] が目に留りました。物事を考えられない、思い出せないという認知の霧の中にいる米国人が増えているという記事です(下図)。

記事を読んでみると、COVID-19 および長期コロナ症(long COVID)がもたらしている米国の深刻な社会状況を示しているものでした。事の重大性があるように、"X"上でも、この記事を引用しているポストを見つけました。

この状況は、米国のみならず日本や世界中の国で当てはまることだと思われます。このブログ記事で簡単に紹介したいと思います。

この NYT 記事 [1] は、米国勢調査局のデータから明らかになった、記憶力、集中力、決断力など、深刻な認知障害を抱える米国人が過去15年間で最も多くなったというものです。もちろん、この増加は COVID-19 パンデミックから始まったものであり、深刻な思考困難を訴える現役世代は、推定で100万人増加しました。18歳から64歳の成人のうち、歩行や階段の昇り降りに問題があると回答した人と、重度の認知障害があると回答した人の数がほぼ同じになったのは、2000 年代に当該局が毎月調査を始めて以来初めてのことです。

この急激な増加は、パンデミックの影響による心理的苦痛もありますが、かなりの割合で長期コロナ症の影響を捉えている可能性が高い、と研究者たちは捉えています。しかし、この増加の背後にあるすべての理由を完全に解明することは、現段階では不可能です。

米国の国勢調査は、毎月の人口動態調査の中で、記憶力や集中力に深刻な問題があるかどうかを尋ねています。この質問を含む日常生活の制限に関する 6 つの質問のいずれかに「はい」と答えた場合、障害者と定義されています。ちなみに、この質問は、障害者申請とは無関係であるため、回答者が一方的に回答する金銭的インセンティブはありません。

2020 年初頭の調査によると、何らかの障害を持つ 18–64歳の人は1,500万人未満と推定されました。それが、2023 年 9 月には約 1,650万人に増加しました。この増加分の 3 分の 2 近くは、新たに思考に制限があると回答した人々で占められています。また、推定によれば、視力障害や基本的な用事を済ませることが著しく困難な成人の数も増加しています。高齢労働者の障害者の割合は減少を続けてきましたが、パンデミックによって、それも終止符が打たれました。

認知に関する問題の増加は、多くの長期コロナ症の人々を悩ませる一般的な症状と一致しています。それは「脳霧、ブレイン・フォグ (brain fog)」です。

記事は、30歳の男性ソフトウェア・エンジニアの例を紹介しています。2020年末にCOVID感染し、1 ヵ月も経たないうちに、生活が一変したと言います。永久に二日酔いで、脳が一気にフリーズしたような気分だったと彼は伝えています。

セントルイスにあるワシントン大学の臨床疫学者であるジヤド・アル-アリ博士は、認知機能障害は長期コロナ症の特徴であると語っています。研究によれば、COVID-19に感染した人の 20–30% は、数ヵ月後に何らかの認知障害があると推定されており、その中には症状が軽い人から衰弱している人まで含まれます。また、長期的に煩っている患者の中には、セロトニンのレベルが低下している人もいます。このセロトニンの低下は、最近、セル誌に掲載された論文 [2] でも報告されています。

この症状は、単なる霧ではなく、基本的には脳の損傷であると、とテキサス大学サンアントニオ校健康科学センターリハビリテーション医学講座のモニカ・ベルドゥスコ-グティエレス博士は述べています。神経血管の変化と炎症があり、M.R.I.上で変化が認められるのです。

なぜ、若い成人に認知機能障害の変化が多く見られるのか、は明らかになっていません。しかし、これには、高齢者が COVID 感染に関わらず加齢に伴う認知機能低下を呈している可能性があり、その結果、認知機能の変化がより若い人たちで際立つのかもしれません。この点を、ジェームズ・C・ジャクソン博士(ヴァンダービルト・メディカル・センターの神経心理学者)は指摘しています。

加えて、長期コロナ症は、若年層と高齢者では異なった症状を示すことが多いことを、ガブリエル・デ・エラウスキン博士(U.T.ヘルス・サンアントニオの神経学教授)が述べています。彼の研究によると、高齢者で認知障害を持つ人は、記憶に関連した問題が多い一方、若年者ほど注意力や集中力に欠け、場合によっては思考に影響を及ぼすほどの疲労や痛みを経験する可能性が高いとされています。

記事では、2 度の COVID-19 感染でほとんど寝たきりになり、基本的な思考回路がほとんど働かなくなり、結局は仕事をあきらめざるを得なかった31歳の例を紹介しています。米国において失業中あるいは労働力から外れている現役世代の障害者の数は、パンデミックの間、ほぼ横ばいで推移してきましたが、国勢調査のデータは、就労している障害者の数は推定 150 万人増加していることを示しています。

パンデミックの間、リモートワークの柔軟性が高まったことで、パンデミック以前に障害を持っていた人々も職に就きやすくなりました。その結果、より多くの障害者が、仕事に就いたため、障害労働者の増加の原因になっている可能性もあります。

専門家によれば、障害者増加の要因は長期コロナ症だけではありません。国勢調査データで報告されている若年成人の認知障害率は、数年前から緩やかに増加しています。この増加の原因と思われる多くの要因の中で、子供の ADHD自閉症の診断の増加が、より多くの人々が自分の認知障害を認識し、報告するようになった可能性があると、専門家は指摘しています。

そして、パンデミック自体が精神障害を生んでいます。パンデミック下では、多くの人が一人で過ごす時間が増え、うつ病の割合が高くなり、精神科の薬を処方されるようになりました。つまり、パンデミックがもたらしたメンタルヘルスの問題の総和が、認知機能の増加に影響を及ぼしていると考えられます。

若い成人は高齢者よりも精神的苦痛を経験しているようで、これは認知機能の問題と関連していると考えられます。ギャラップ社の世論調査によると、パンデミック前は比較的同程度であった各年齢層のうつ病罹患率は、パンデミック中に 45 歳以下の成人では急上昇しましが、高齢者では横ばいでした。

ニューヨーク在住の34歳の女性俳優の場合は、パンデミックが発生したときに不安と抑うつが急増し、記憶力が低下し始めたと語っています。彼女の問題は、国勢調査で問われる「深刻な困難」までには至っていませんでしが、パンデミック前に経験したどんなことよりもひどいものでした。彼女の精神状態は回復しましたが、記憶力や集中力は回復しなかったと言います。物事をすぐにメモしなければ、それは存在しないことになるのです。

ワシントン大学のマーガレット・シブリー教授(精神医学・行動科学)は、パンデミックのストレスが、ADHD のような既存の症状を悪化させた可能性があると述べています。

国勢調査はすべて自己申告に頼っているため、専門家によれば、このデータは、たとえ健康状態に変化がなくても、人々が自分の認知をどのように受け止めているかの変化をとらえている可能性もあると言います。障害を持つ人々は、障害受容の高まりに注目し、国勢調査の質問に正直に答える傾向が強くなったのかもしれません。精神疾患発達障害に関する動画がネット上で拡散し、しばしば自己診断を促すようになったため、一部の若者は、パンデミックの間に神経多様性への認識と受容が高まった可能性もあります。

しかし、このような認識の変化が数字に与える影響は比較的小さいだろうと、モニカ・ミトラ(ブランダイス大学ルーリー障害政策研究所)は述べています。つまり、障害者の増加分のほとんどは、おそらく人々の健康状態の実際の変化を捉えたものだろう、ということです。

NYT 記事は、最後に彼女の言葉を載せています。「私たちは社会としてこのことを真剣に受け止める必要があります」、「このような人々が誰なのか、どのような影響を受けているのか、それに対して何ができるのかを理解する必要があります」。

筆者あとがき

米国で長期コロナ症の認知機能障害が増加し、現役世代の若年層(20–40代)がそのマジョリティであるという今回の記事は、想像されたとは言え、やはり衝撃的です。この状況はおそらく世界的な傾向でしょう。

日本では COVID-19 の5類化以降、政府やメディアが発する疫学情報の激減に伴ってこの病気への人々の関心は薄れていると思われます。長期コロナ症も、いわゆる「後遺症」という言葉で表されるように付随的なもので、「軽い」扱いになっているように思われます。しかし、集団的健康被害を考えれば、長期コロナ症は COVID-19 の本質的なものであり、社会的影響はきわめて大きいと言えます。

日本政府は、米国の国勢調査の項目にあるような精神的、認知障害を問う調査を行っていません。長期コロナ症の人がどのくらいいるか具体的にわかりませんが、感染者の数と発症率を考えれば、数百万人の患者がいると推定されます。物事を考えられない、覚えられない、忘れるという感覚は非常に幅が広いものであるので、実際 COVID-19 に感染して長期コロナ症になったとしても、認知機能障害を自覚していない人も多いのではないかと想像します。検査をしていなければ、なおさらそれはうやむやになります。

引用文献・記事

[1] Paris, F.: Can’t Think, Can’t Remember: More Americans Say They’re in a Cognitive Fog. November 13, 2023. https://www.nytimes.com/2023/11/13/upshot/long-covid-disability.html

[2] Wong, A. C. et al.: Serotonin reduction in post-acute sequelae of viral infection. Cell 186, 4851–4867 (2023). https://doi.org/10.1016/j.cell.2023.09.013

       

カテゴリー:感染症とCOVID-19 (2023年)

豊橋公園の新アリーナ計画問題

カテゴリー:その他の環境問題公園と緑地 社会・政治・時事問題

はじめにー豊橋公園の概要

豊橋公園(とよはしこうえん)は、愛知県豊橋市今橋町にある緑豊かな城址公園です。豊橋駅から北東方向に歩いて30 分弱(約 1.5 km)の距離にあります。広さは 21 ha におよび、西側に吉田城址写真1)のほか、美術博物館、三の丸会館などの歴史・文化施設があり、東側には野球場(豊橋球場)、テニスコート陸上競技場のスポーツ施設があります(図1)。公園北側は、一級河川である豊川(とよがわ)およびその支流である朝倉川と接しています。

↑写真1  吉田城址

図1. 豊橋公園の全景(Google Map より転載)

私は、豊橋技術科学大学の教員として勤めていた21年間、一市民としてこの公園にはときどき訪れては、散策を楽しんでいました。そして昆虫や植物の定点観察の場としても利用していました。今でも年に 1〜2 回は観察で訪れています。

公園全体で見れば、半分はスポーツ施設で占められていますが、私が面白いと思うのは、その中心となる野球場全体が緑に包まれていることです。周囲だけでなく、芝生状態の観客席にも大きな樹木が生えています。つまり、この野球場には、初期に植栽された木々の成長に加えて、歴史的に自然木の緑と一体化して構築されてきた都市生態系の一つの姿があり、西側区域の歴史・文化施設や周辺との景観や緑とも融合した城址公園を形成しているという、ユニークな特徴があるのです。

市は「老朽化した野球場」という視点しかもっていないかもしれませんが、緑に囲まれて野球ができ、緑のなかで観戦を楽しめるという面白みが、この球場にはあります。樹木の下で野球を観戦できるという球場はそう多くはない思います。2012年に豊橋で学会大会を開催したのですが、合間を縫ってこの公園に訪れた国内外の研究者の皆さんも、この球場のユニークさに興味を示していました。

豊橋球場は、何よりも豊橋市民に長年愛されてきた豊橋公園のシンボルとも言えるものです。球場は、長年、緑と一体化しながら歴史を刻んできたことで「ハク」が付き、一段と増したその価値に、市と地元経済界も、もちろん市民も気づいてほしいと思います。

公園はまた、市内イベントの会場としても利用されており、災害時は市役所の指定する広域避難場所にもなっています。豊橋球場はその中心であり、豊橋まつりなどのイベントの際には、エンターテイメントのステージができ、屋台が集まり、にぎわいと憩いの場になります。

ところが、この公園について大きな問題が起こっています。現在の野球場を取り壊し、新しいアリーナを建設し、周辺を整備するという計画があるのです [1]。私は、新アリーナ建設を争点とした前回の豊橋市長選挙の頃からこの問題に注目してきましたが、今年になって浅井由崇市長が中間報告で示した計画変更 [2, 3] が、彼が主張していた公約 [4] と違っていたことに驚きました。当時の対立候補の1人であった佐原光一前市長と、同じ主張(つまり今の計画)になっていたからです。

私は SNS 上で今の新アリーナ建設計画を批判してきましたが、昨日、仕事で豊橋に立ち寄った折り、豊橋駅前で計画の賛否を問う住民投票についての署名を求められました。残念ながらもはや豊橋市民ではないので、署名はできませんでしたが、このブログであらためてこの新アリーナ計画の問題点を考えようと思いました。

この計画には、いま注目の的となっている明治神宮外苑再開発計画などと共通する問題が見られると思います。すなわち、都市景観、緑の歴史、および現存する樹木などの市民の共有財産を、一部の利権者の経済至上主義による開発で潰してしまうという問題です。

1. 緑の球場

ここで、豊橋球場のなかに足を踏み入れて、樹木を見てみましょう。球場は築70年超で施設の老朽化が進んでいます。逆に言えば、それだからこそ、70年の歴史の跡が、自然木の繁栄としてみられるわけです。このことには皆さん、あまり気づいてないようです。

外野席は芝生の状態で、ところどころに樹木が生え、その陰の下で腰を下ろしながら観戦できます(写真2)。ここで見られる樹木は主にクスノキクスノキ科クスノキ属)です。

↑写真2  豊橋球場の外野席の風景(2023.11.11)

外野から内野に向かうとコンクリートの段差型腰掛け席になっていて、背後に樹木が連なって生えています(写真3)。こんな場所ですから、伐採しようと思ったらいつでもできたはずですが、市はそれを長年やらずにここまで成長させてきたということになります。

↑写真3  豊橋球場の内野席の風景(2023.11.11)

内野席の背後に生える樹木は、主に落葉広葉樹のエノキ Celtis sinennsis で、数えてみただけで 10 本以上の高木があります。私が 30 年近く前に初めてこの球場を訪れた時にはすでに生えていましたので、少なくとも樹齢 30 年は超えるエノキ群です(写真4–6)。

↑写真4  内野席付近のエノキ(2023.11.11)

↑写真5  内野席付近のエノキ(2023.11.11)

↑写真6  内野席付近のエノキ(2023.11.11)

エノキは樹齢を反映して根際が発達していて、これから冬にかけて落葉が溜まります。

↑写真7  エノキ高木の根元(2023.11.11)

↑写真8  エノキ高木の根元(2023.11.11)

エノキの実は、野鳥の大好物であり、この公園内でも多く見られる野鳥種の生息を支えているものと推察されます。また、エノキの葉は、日本では国蝶であるオオムラサキのほか、ゴマダラチョウ、ヒオドシチョウ、テングチョウなどの他のタテハチョウ科の幼虫のエサになります。このなかで、この公園にはゴマダラチョウ写真9)のみが生息しており、まれにテングチョウを見かけることがあります。さらに、エノキ葉上のゴマダラチョウの幼虫自身が、野鳥のエサとなることがあります。

私がこの30年間、豊橋公園内で観察・調査の対象としてきた生物の一つが、ゴマダラチョウです。全国的に普通種ですが、エノキの伐採とともに年を追って個体数を減らし続けており、都市近郊における環境指標生物の一つとしてとらえることができます。

↑写真9  ゴマダラチョウ Hestina japonica (Hestina persimilis japonica) の成虫

ゴマダラチョウは年 3 回発生しますが、この時期(11月)は、越冬に向けて幼虫が準備している段階であり、エノキの葉上で体を糸で固定し、位置取りしている姿を公園内でよく見ることができます(写真10)。

↑写真10  豊橋公園におけるエノキ葉上のゴマダラチョウの越冬型幼虫(2020.11.13)

気温低下とともに、徐々に幼虫は根元に降りて落葉の下に潜るようになり、12月に入るとほぼ全部が落葉にくっついて過ごす姿を見ることになります(写真11)。つまり、ゴマダラチョウにとって、エノキの高木とその下に溜まる豊富な落葉が、冬を過ごすための大切な家・寝床になるわけです。

↑写真11  球場内のエノキ根元の落葉で越冬するゴマダラチョウの 4 齢幼虫(2017.01.15)

豊橋公園にはエノキが多数存在しますが、豊橋球場はその中核となる高木が生えており、公園内の野鳥やゴマダラチョウの生息を支えていることは間違いありません。生物多様性の起点になっているかもしれません。もし球場内のすべての樹木が伐採されてしまえば、これらの生物の生息に大打撃となるばかりか、公園全体および周辺の環境にも大きな影響を及ぼすことになるでしょう。

新アリーナ計画では、球場の南側は駐車場になる予定であり、いまある児童公園や広場の樹木も伐採されることになっています。この区域には、マツ類やカイズカイブキ Juniperus chinensis(ヒノキ科ハイビャクシン属)などの高木がたくさん見られます。後者は、とよはしの巨木・名木 100 選の一つにもなっていて、その説明プレートもあります [5](図2)

図2. とよはしの名木・巨木 100 選の一つ, カイズカイブキ(市HP記事 [5] より転載).

これらの木を実際見てみると、幹が発達していて見事な成長ぶりです。市の説明を見ると、カイズカイブキは公園整備に伴い、整備されたとあります。

2. 新アリーナ計画

豊橋市は、2019 年に「新アリーナを核とするまちつくり基本計画」を発表しました [6]。背景として、日本政府が成⻑戦略である日本再興戦略2016において、スポーツを成⻑産業と位置付け、その効果を地域の活性化に活用していく方向性を示したことがあります。すなわち、この計画の目的は、スポーツのインフラであるスタジアム・アリーナを新しく設置することで、スポーツ振興やアリーナ自体の経済効果のみならず、これを核として周辺地域の飲食、宿泊、観光等に影響を与える地域活性化を促し、コミュニティとしての一体感を生み出して行こうというものです。

愛知県による「豊橋市新アリーナ整備への支援について」では、以下のように目的が掲げられています [1]

豊橋市新アリーナにおいて、県が整備を進める愛知県新体育館とスポーツ大会やイベントの連携を図り、相乗効果をあげるとともに、にぎわいを創出することにより、東三河地域のスポーツ振興及び地域振興を促進する。

簡単に言うと、市と地域の活性化と金儲けのために、スポーツを利用したい、そのための空間を新しく設けたいというものでしょう。豊橋市は、男子プロバスケットボールリーグ「B.LEAGUE」B1 に所属する「三遠ネオフェニックス」のホームタウンです。現在、三河湾沿岸の豊橋総合スポーツ公園にある市総合体育館(ちなみにB1 リーグの施設基準を満たしていない)で試合が行なわれているわけですが、市中心部に近い新アリーナで開催することができれば、集客も経済効果も見込め、相互メリットもあるということになります。

これだけを聞けば、まことに結構な計画なのですが、問題は新アリーナの建設予定地が豊橋公園であるということです。市は当初、公園内の北側にある広場(旧体育館跡地)を新アリーナ建設予定地としていました [6]。しかし、この計画では、建設予定地の一部が朝倉川の家屋倒壊等氾濫(はんらん)想定区域に含まれるという問題がありました。このため、中間報告では位置を見直し、現在の豊橋球場の位置に新アリーナを建設し、ここを防災拠点としも活用することも想定することとなりました [2, 3]

計画では、球場を取り壊し、その跡地の建築面積 12,700 平方メートルに、高さ 25 m 程度の巨大な建築物が立つことになっています。この高さは、7 階程度のビルの高さに相当します。野球場は、7 km 離れた総合スポーツ公園に移設されることになっています。要は、B1リーグの場である総合体育館と野球場を場所交換するという計画です。市は、事業費について新アリーナの整備に約 150 億円、球場の移設などに約 70億円、計約 220 億円となる見通しを示しました [3]。新アリーナの着工は25年度中になる見通しです。

しかし、事業費がこれで済むとは到底思えません。すでに300億円以上に達しているという声も地元で聞きました。原資は税金です。

3. 計画の何が問題か

この計画の何が問題かと言えば、端的に言えば、豊橋市民の現在と未来にとって貴重な公園という共有財産とその価値が、時代錯誤の前のめりの開発によって失われかねないということです。すなわち、スポーツ振興、経済と地域活性化という、言わば 20 世紀型の発想を優先することで、気候変動時代の未来に向けてより恩恵をもたらす景観や樹木を含めた都市生態系の価値が顧みられず、貴重な歴史と空間が一気に失われようとしているのです。

もちろんこの計画に対する市民の反対運動もあり、「市民不在の新アリーナ計画に反対する豊橋市民の会」は、計画の問題点を詳しく解説しています [7]。昨日、私が豊橋駅前で署名を求められたのも、新アリーナ計画の賛否の住民投票を求める反対・慎重派の活動です。

私はあらためて、この計画の当初の文書「新アリーナを核としたまちつくり基本計画2019–2023」を読んでみました。そうすると、新アリーナ計画と豊橋市の上位計画との整合性のなさに気づきます。手続き上も問題があることが、市自ら証明していることがわかります。

本書には、わざわざ上位計画の整理として、 (1)第 5 次豊橋市総合計画(後期基本計画)<戦略計画9  まちECO実践プロジェクト>が挙げられており、分野別計画の中の四番目に「環境を大切にするまちづくり 」というのがでてきます(37 ページ)。具体的には、1) 温暖化防止対策の推進、2) 自然環境の保全、3) 水と緑の環境づくり、4 大気・水環境の保全、5) 廃棄物対策の推進の 5 項目が挙げられています。 しかし、豊橋公園を建設予定地としているにもかかわらず、これらは「新アリーナを核としたまちづくり基本計画に関連する項目」として関連づけられていません。

時代はすでに気候変動と地球温暖化が相当進行した状況になっており、夏の酷暑や激甚自然災害の多さも私たちはすでに経験しています。気候変動対策は待ったなしであり、温暖化対策やヒートアイランド防止策の一つとして、気温緩衝効果が期待できる緑化は重要で、都市公園はその機能をもつスペースとして強化して行く必要があります。もし、樹木を伐採したり、その他の緑の機能を妨げるような変化を伴う事業は、真っ先にこの点を考慮しなければならないことは言うまでもないことですが、当該文書には言及がないのです。

豊橋球場も含めた豊橋公園の樹木は、70年余をかけて成し遂げられたきた脱炭素の証しです(樹木は固定された炭素の権化)。豊橋市総合計画を鑑みれば、将来にわたって、炭素固定の活動の場として、クールアイランドとしてこの公園を維持・強化していかなければならないことを、市は再認識すべきではないでしょうか。

また、(5)とよはし緑の基本計画(改訂版)が記してありますが(本書 52 ページ以降)、この基本計画と新アリーナ計画との関係が読んでもよくわかりません。以下に直接スクリーンショットを載せます。

図3. とよはし緑の基本計画と新アリーナ計画との関係(新アリーナを核としたまちつくり基本計画2019–2023より転載)

上図のように、施策3-1-1として 豊橋公園を含む「大規模な公園・緑地の充実」が挙げられており、「緑豊かな環境を保全し、生物多様性の確保やクールアイランドとなる緑を保全するとともに、施設の充実を図ります」とありますが、このままでは全くギャグにしか聞こえません。豊橋球場とその南側の樹木を伐採し、鉄筋とコンクリートに変えることが、緑の基本計画の主旨とどのように合致するのでしょうか。

豊橋市は、豊橋駅を含む中心市街地及び豊橋公園を含むエリアを「緑化重点地区」に、豊橋公園を「とよはしネイチャースポット」に位置づけており、さらに、球場南側に植栽した樹木を「とよはしの巨木・名木 100 選」の一つに指定していますが [5]、大量の樹木伐採を伴う新アリーナ計画は、これらとあまりにも矛盾していると言えるでしょう。つまり、市の上位計画を無視し、市民の声を反映させることもなく、強引に進める今のやり方は、手続き上も問題があり、決して許されるものではないと考えます。

計画変更前の文書では、新アリーナ建設予定地として、北側の広場が当てられており、球場と南側広場を維持する一応の配慮がうかがわれました。しかし、変更された計画では、一気にこれらをつぶし、代わりに豊橋総合スポーツ公園に球場を移設することで解決しようとしたことがわかります。ハコモノの移動だけで考え、気候変動時代において、市民にとってより重要な肝心の「環境」が一切考慮されなかったということです。

もし計画が実行されれば、豊橋公園の景観は一変してしまいます。たくさんの樹木と自然が失われ、クールアイランド機能は損なわれ、さらに観光資源としての価値低下のリスクも懸念されます。市は新アリーナ建設によって地域活性化を期待しているようですが、将来の豊橋公園へのインバウンドを考えた場合、アリーナよりも「歴史と緑の景観」の発展性が圧倒的に魅力的です。遠方からの観光客が、わざわざ公園までアリーナを見に行こうとは思いません。市は外からどう見えているかも考えなければいけません。

この計画が「B.LEAGUE」ありきになっているので、あまりにも地域内向きの近視眼的な姿勢になっていることに気づいていないのでしょう。5 千人規模のアリーナを作って、年間数十試合を消化したところで、市民レベルでの利用があったところで、施設整備費を含めた採算、維持管理・運営時の採算を考えると大した商業的利益は見込めず、逆に赤字経営なる恐れがあります。音楽興行を扱う場合も、動員数×チケット売上が単純に興行主の利益につながるので、5 千席では足りないと思われます。

アリーナをつくるなら、何もないところから価値を生み出すような場所を選定すべきであり、かつ興行的にも防災拠点施設としても 8 千人以上の規模はほしいところです。そして、経済・地域活性化だけのかけ声だけでは片手落ちで、気候変動時代の未来に向けた別角度からの位置づけが必要でしょう。

もちろん事業費との兼ね合いがあり、将来の負担も含めて市民の合意形成が必要になることは言うまでもありません。合意がなければ計画延期、あるいは中止する英断が必要です。いずれにしても、現計画の豊橋公園に新アリーナというのは無謀というものです。

おわりに

もう入札公告も出ているようですが、浅井市長と市当局、議会の計画推進派は、基本に立ち返り、一度立ち止まり、今一度「新アリーナを核としたまちつくり基本計画2019–2023」を読み直す勇気をもつべきであり、豊橋市の上位基本計画と新アリーナ計画の整合性について再検証すべきです。まずは、建設予定地の植生と生態系について調査を行ない、その上で球場を廃止しアリーナを建設した場合の豊橋公園および周辺への環境影響について、詳細なアセスメントを実施すべきです。その上で、市民の声を反映した民主的な進め方が必須です。

想像するに、本計画について環境アセスメントも実施していないのではないかと思われます。公表されているのは、新アリーナ建設に伴う地域の活性化や経済効果ばかりで、環境アセスメント(現存の価値は何か、失われるのは何か、どの程度か、建設メリットとデメリット比)の結果は一切見当たりません。

引用記事

[1] 愛知県: 豊橋市新アリーナ整備への支援について. 2022.05.30. https://www.pref.aichi.jp/press-release/toyohashi-newarena.html

[2] メーテレ: 愛知・豊橋市の新アリーナ建設巡り市が当初予定地見直し 市長が表明「防災拠点としては不適切」 2023.05.31. https://www.nagoyatv.com/news/?id=019022

[3] 朝日新聞デジタル: 豊橋公園から球場移設へ 跡地に新アリーナ整備 豊橋市が中間報告. 2023.06.01. https://digital.asahi.com/articles/ASR507JRHR50OBJB00K.html

[4] 東愛知新聞:「新アリーナ構想」豊橋市長選出馬予定3氏の見解. 2020.10.20. https://www.higashiaichi.co.jp/news/detail/7011

[5] 豊橋市: 「とよはしの巨木・名木」100選 豊橋公園カイヅカイブキ. https://www.city.toyohashi.lg.jp/41090.htm

[6] 豊橋市: 新アリーナを核としたまちつくり基本計画2019–2023. 2019年3月.

[7] 市民不在の新アリーナ計画に反対する豊橋市民の会: 検証:豊橋市の多目的屋内施設(新アリーナ)計画  問題点の整理と解説. 2023.11.08更新版 https://sites.google.com/view/toyohashi-arena/home

       

カテゴリー:その他の環境問題公園と緑地 社会・政治・時事問題

 

感染対策としての手洗いの効果

カテゴリー:感染症とCOVID-19 (2023年)

はじめに

手洗い、アルコール消毒などの手指衛生非医薬的介入(non-pharmaceutical intervention, NPI)による感染症予防策の基本の一つです。手を薬用石けんで洗えば、手に付いた病原体を不活化できると同時に洗い流すという物理化学的な除去が可能であり、接触感染経口感染の防止に効果的です。

一方で、COVID-19 や季節性インフルエンザなどの呼吸器系感染症の場合はどうでしょうか。これらのウイルス感染症は、飛沫感染エアロゾル感染(空気感染)が主要な感染経路であり、接触感染はあったとしてもその可能性は低いと考えられます。とはいえ、感染症に対する危機管理はハードル理論(スイスチーズモデル)理論に基づいて行なわれるのが原則なので、マスク着用を含めた様々な NPI の組み合わせ(積み重ね)が予防に重要ということは言うまでもありません。

然るに、厚生労働省や専門家は、判で押したように、呼吸器系感染症予防策として「手洗い」を真っ先に挙げ、マスク着用については後付けか、場合によっては触れられないこともあります。これは、COVID-19 やインフルエンザの主要感染経路を考えると、奇妙なことです。

では、実際、手洗いなどの手指衛生について、歴史が長いインフルエンザやより新しい COVID-19 の予防策としてどのくらいの研究があるのか、調べてみました。

1. 手洗いの効果に関する研究

手っ取り早く、PubMedを使って、hand washing 、influenza というキーワードで「手洗いの研究」を検索してみました。そうしたら、339 件しかヒットせず、予想したよりもかなり少ない件数でした(図1)。これらの研究は 2009 年の H1N1 パンデミックの頃に集中しており、COVID-19 パンデミックになってまた少し増えているということがわかります。

さらに、covid-19、face mask というキーワードも加えて検索し、それらの結果を比較したのが以下です。マスクとCOVID-19、あるいはインフルエンザの組み合わせによる研究が多く、これらと比較しても手指衛生の研究が少ないことがわかります。 

 hand washing/influenza:339

 hand washing/covid-19:1159

 face mask/influenza:276

 face mask/covid-19:3843

これらの手指衛生研究の中で、総説やシステマティック・レビューでフィルタリングして検索してみましたが、非常に少なく、最近 5 年間になると数件しかヒットしませんでした。これらのなかで、COVID-19パンデミックになってから出版されたものとして、3本の論文 [1, 2, 3] がありました。

これら 3 本のうち、2 本は、いずれも電子ジャーナル BMC Public Health に掲載された論文でした [2, 3]。残りの一つは、反マスク論者である T. ジェファーソンらによるコクラン・レビュー [1] であり、今年 3 月に物議を醸したアップデート版が出版されています(→「マスク効果なし」としたコクラン・レビューの誤り。ここでは、BMC 誌に掲載された、COVID-19やインフルエンザと手指衛生との関係に特化したシステマティックレビューの一つ [3] を取り上げて解説します。

2. システマティック・レビュー

L. Gozdzielewska らによるこのレビュー [3] では、PubMed、MEDLINE、CINAHL、Web of Scienceの各データベース(2002年1月~2022年2月)を用いて、一般市民における手指衛生、COVID-19 またはインフルエンザの感染・伝播に関する実証的研究が検索されています。医療スタッフを対象とした研究などは除外されています。

これらには 22 の研究が含まれ、6 件は、インフルエンザに対する手指衛生教育や製品の提供、手洗いの有効性を評価した介入研究でした。そのうち、2 件の学校ベースの研究のみが有意とされましたが、バイアスのリスクが高いとされました。残りの 16 件の NPI 研究のうち、13 件がインフルエンザ、SARS または COVID-19 に対する手指衛生の予防効果を報告したものでしたが、やはりバイアスリスクが高く、不明確あるいは精度が低いものでした。そして、どれくらいの頻度で手指衛生を行うべきかに関する科学的証拠は一貫していませんでした。

結果として、手指衛生が、SARS-CoV-1SARS-CoV-2、および地域社会におけるインフルエンザウイルスの予防に有益であることを示唆する科学的証拠は限られており、このなかで明確なのは、学童におけるインフルエンザの予防に有効である可能性が示されたことのみでした。

他の最近のシステマティック・レビュー[1, 2] では、呼吸器系感染症の予防における手衛生指の有効性が述べられています。しかし、これらのレビューでは、マスク着用や社会的距離の取り方などとの組み合わせという、公衆衛生対策の範囲がより広かったり、ランダム化比較試験のみに焦点が当てられていたり、低・中所得国についての証拠に焦点が当てられていたり、手指衛生自体の評価には限界がありました。

このように、手指衛生を含めた介入研究では、多くがマスク着用との複合効果について検討されており、これらの手段の複合効果に対する手指衛生の寄与率は不明確なままです。さらに手指衛生とマスク着用は関連した行動である可能性が高く、流行の脅威が高まると一般的にガイドラインの遵守率が高まる可能性が高くなります。このレビューでは、今後の研究において、異なる介入構成要素の個々の寄与率を検討すべきであると強調されています。

手指衛生の研究の問題の一つとして指摘されているのは、タイミング、頻度、時間につして一貫性がなかったり、情報が不足していることです。たとえば、COVID-19 予防に関する研究のうち、1日 5 回以上など具体的な頻度を調査したのは 1 件のみであり、残りの 4 件の研究では、予防効果を得るための手洗いの回数については情報がありませんでした。ちなみに、日本において、2149人の一般市民を対象に実施された調査では、COVID-19 パンデミック時に自己報告された手洗い頻度の平均は、10.2回/日でした [4]

インフルエンザについては、5 件の研究のうち 3 件のみが、頻繁な手洗いによる有意な予防効果を示していましたが、回数については研究で異なっていました。SARS については、頻度による予防効果を調査したのは 1 件のみであり、1日に少なくとも 10 回の手洗いが SARS-CoV-1 感染に対する予防効果を示しました。

公衆に対する手洗い頻度の根拠が一定していないことに加えて問題なのは、医療スタッフのためのガイドラインの一貫性のなさです。専門家による手指衛生ガイドラインでは、単に頻繁な手洗いを推奨するのではなく、手指の汚染リスクが増加する特定の明確な時間、または瞬間的に手指衛生行動を伴うことが不可欠であるとされています。したがって、現状では、医療従事者が、いつ手を洗浄すべきかについての一貫した証拠がないことは懸念されるとレビューは述べています。

手指衛生について別の側面である、どれくらいの時間手洗いを行うべきかということについても情報は不足しています。このレビューに含まれた全研究のうち、少なくとも20秒間手洗いを行うことの予防効果を調査したのは 2 件のみであり、いずれも有意な効果は認められませんでした。

手指衛生の研究のもう一つの問題点として挙げられているのが、様々な交絡因子がこれらの知見の妥当性と信頼性に影響を与えた可能性です。これには、手洗い行動の測定に回顧的自己報告を用いた調査は、参加者が 1 日に何回を洗ったか、またはいつそれを行なったかを思い出せないこと、試験目的で参加者が手指衛生の技術が不足している可能性があること、研究者による面接時に参加者が手指衛生行動を誇張し、期待通りの回答をする傾向があることなどが含まれています。また、データの記述的分析のサンプルサイズが比較的小さいことも、研究結果をさらに混乱させています。

公衆向けの手指衛生のガイドラインを効果的にするためには、手指衛生行動の勧告に一貫性と具体性があり、かつ一般市民が実践できるほどシンプルでなければならない、とレビューでは強調されています。パンデミック感染症流行時には、いつ、どのように手を清潔にすべきかを具体的に伝える必要があり、異なる状況や地域集団に合わせて調整するリスクコミュニケーションのあり方も検討されるべきでしょう。

結論として、このレビューは、手指衛生の予防効果を支持する科学的証拠は一貫性がなく、方法論的な質によって制限されているとし、現行の手指衛生のガイドラインの妥当性を評価し、改善を推奨するには情報が不十分であるとしています。今後、どのような状況で、どのような頻度で、どのような製品を用いて地域で手指衛生行動を実施すべきかを明らかにし、流行時に地域でこれらの特定の行動を促進するための効果的な介入策を開発する必要があるとしています。

おわりに

一般論として、手洗いや手の消毒等の手指衛生が感染症予防に有効なことは、言うまでもないことです。ただ、感染様式の異なる感染症に対して、常にそれが優先されるべき感染対策であるかどうかは異なりますし、NPI のなかでの貢献度も当然違ってくるでしょう。

今回論文を探索してわかったことは、インフルエンザ予防策としての手洗いの意義と方法論に関するシステマティック・レビューがきわめて少なく、かつ今回のレビュー [3] では、手指衛生の有効性に関する科学的証拠に一貫性がないと指摘されていることです。実際には、マスク着用や対人距離の確保など、他のNPIとの組み合わせで感染予防が行なわれていることが多いため、手指衛生自体の貢献度を測ることが容易でないことも理解できます。

少なくとも、インフルエンザやCOVID-19のように、主として飛沫感染エアロゾル感染で伝播する呼吸器系感染症の場合は、それに見合った公衆向けの NPI のガイドラインが必要だと思われます。すなわち、マスク着用、換気、手洗い、対人距離など、予防策として貢献度が大きいと思われる順に、あるいは並列に挙げることが肝要です。例えば、感染者や濃厚接触者の場合、混雑する閉鎖空間に出向く場合、病院や施設を訪問する場合は、マスクを着用することは、最優先で行なうべき NPI であると言えましょう。

感染対策として手洗いは必要ですが、常にそれが全面に出されることにより、より貢献度の大きい NPI の意義が減ぜられるようであれば、リスクコミュニケーションとして誠に不備だということになります。しばしば、COVID-19やインフルエンザの感染対策としてマスク着用に触れない専門家がいたり、「咳エチケット」という具体性がない言葉で置き替えられたりするのは、不適切だと思います。

引用文献

[1] Jefferson, T. et al. Physical interventions to interrupt or reduce the spread of respiratory viruses. Cochrane Database Syst. Rev. 11, CD006207 (2020).
https://doi.org/10.1002/14651858.CD006207.pub5 

[2] Veys, K. et al.:  The effect of hand hygiene promotion programs during epidemics and pandemics of respiratory droplet-transmissible infections on health outcomes: a rapid systematic review. BMC Public Health 21, 1745 (2021). https://doi.org/10.1186/s12889-021-11815-4

[3] Gozdzielewska, L. et al. The effectiveness of hand hygiene interventions for preventing community transmission or acquisition of novel coronavirus or influenza infections: a systematic review. BMC Public Health 22, 1283 (2022). https://doi.org/10.1186/s12889-022-13667-y

[4] Machida, M. et al.: How frequently do ordinary citizens practice hand hygiene at appropriate moments during the COVID-19 pandemic in Japan. Jpn. J. Infect. Dis. 74, 405-410 (2021). https://doi.org/10.7883/yoken.JJID.2020.631

引用したブログ記事

2023年3月「マスク効果なし」としたコクラン・レビューの誤り

2023年1月28日 感染制御のためのハードル(バランス)理論

       

カテゴリー:感染症とCOVID-19 (2023年)

日本の研究はもはや世界に通用しない-理由はここにある

カテゴリー:科学技術と教育

日本の科学研究力の低下が言われて久しいですが、今回ネイチャー誌に、サイエンスライターAnna Ikarashi(五十嵐杏南)氏による「日本の研究はもはや世界に通用しない」という記事が掲載されました [1]下図)。強力な研究労働力はあるのに、研究の質的低下は止まらないという添え書きがあります。ネイチャー誌は、以前から日本の研究の凋落ぶりを掲載し続けていますが、今回もいよいよダメ押ししてきたという感じです。

この記事は、最近で出版された日本の科学技術・学術政策研究所 [NISTEP] の報告書に基づいて書かれたものですが、本質的な指摘です。この記事の中に豊橋技術科学大学建築・都市システム学系の小野悠(おのはるか)准教授の名前が出てきますが、豊橋技科大は私が20年間勤めていた大学です。そのこともあって、ここでこの記事を翻訳して紹介したいと思います。

以下、筆者による翻訳文です。

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10 月 25 日に英文で発表された文部科学省の報告書によると、日本は、世界最大級の研究コミュニティを有するにもかかわらず、世界レベルの研究への貢献度は減少し続けている。

2023 年版日本科学技術指標報告書の執筆者の一人である伊神正貫氏(科学技術・政策研究所 [NISTEP] 科学技術予測・政策基盤調査研究センター長)によると、この調査結果は、日本が世界的地位を向上させるために探求すべきいくつかの分野を浮き彫りにしていると言う。「日本の現在の研究環境は理想的とは程遠く、持続不可能です。研究環境は改善されなければなりません」。

報告書によれば、日本の研究者総数は中国、米国に次いで世界第 3 位である。しかし、この規模は 20 年前と同じレベルのインパクトのある研究を生み出しているわけではない。最も引用された論文の上位 10% に占める日本の研究論文の世界シェアは、6% から 2% に低下し、国際的地位の低下に対する日本の懸念が強まっている。

伊神氏は、研究成果の質という点において、他の国が日本を追い抜いている状態と説明する。「日本の研究者の生産性が落ちたわけではありません。しかし、他国の研究環境はこの数十年で非常に改善されました」と言う。

時間と資金

この研究低下の一部はお金に起因しているかもしれない、と伊神氏は言う。上記報告書によると、大学部門の研究費は過去20年間でアメリカとドイツでは約 80%、フランスでは 40%、韓国では 4 倍、中国では 10倍 以上に増加している。対照的に、日本の支出は 10% 増にとどまっている。

しかし、たとえ研究者により多くの資金が提供されるようになったとしても、日本の科学者が実際の研究に費やす時間自体が減少しているため、インパクトのある研究を生み出すことは難しいかもしれないと、伊神氏は言う。文部科学省による 2020 年の分析によると、大学研究者が科学に割く時間の割合は、2002 年から 2018 年の間に 47% から 33% に減少している。

「大学研究者は、教育、産業界との連携、地域社会への関与など、多様な役割を担うことがますます求められています。医学の分野では、若手研究者が病院の収益を維持するために臨床業務により多くの時間を割くようになっています。「大学が多様な方法でより広い社会に貢献することには利点がありますが、研究に使える時間は制限されています」。

この報告書の調査結果は、以前行われた若手研究者を対象とした調査の結果を裏付けるもので、研究時間の不足が仕事に対する不満の顕著な要因であると指摘している。調査グループの一員である豊橋技術科学大学の土木技師、小野悠氏によると、回答者は事務的な仕事が負担に感じているという。「外国人研究員のビザの手続きから、学生が家賃を滞納しているという家主からの電話への対応まで、研究責任者であれば何でも責任になります」と彼女は言う。

研究環境の変革

日本学術会議で若手研究者の代表を務める東京大学の情報生物学者、岩崎渉氏は、研究時間を確保するために、事務職員や実験技術者、民間企業との共同研究を促進するためのビジネス専門知識を持つ職員など、サポートスタッフの増員を望んでいる。現在、日本の大学では研究者20名につき技術者 1 名が配置されているが、この数字は 2023 年版報告書に掲載された他国と比べて著しく低い。

サポートスタッフの充実はまた、日本で一般的な階層的研究室モデルからの脱却の傾向を強めるだろう、と小野氏は付け加える。伝統的な研究室構造では、上級教員が研究の方向性やリソースを管理し、若手教員は補助的な役割を担うことが多い。例えば、東北大学は日本の新しい大学基金に選ばれ、より多くの若手研究者を主任研究者に任命することを約束した。しかし、サポートスタッフがいなければ、若手研究者にとっては、突然の自律研究活動は逆効果に終わるかもしれない。

小野氏によれば、彼女が主任研究者になったとき、研究室運営の経験がない状態から、専門的なサポートなしに、学生の指導をやりながら自分の研究目標を達成しなければならない状況になった。「それに伴う不安は、長期的で影響力の大きい研究を試みるには建設的なものではありませんでした」と彼女は言う。

伊神氏は、研究室のメンバーが年功序列で苦労しているのを見て、若手研究者が研究のキャリアを追求するのを躊躇しているのではないかと言う。博士課程の学生の数は、過去 20 年間で 21% 減少しているという。学部生や修士課程の学生よりも研究経験が豊富な博士課程の学生を研究室に多く集めることは、日本にとってよりインパクトのある研究を促進するために非常に重要である、と彼は言う。

「日本の研究環境は過去から進歩していませんし、大学が研究者を時限付き雇用することが増えているため、学術界でのキャリアの見通しは悪くなる一方です」と彼は言う。

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翻訳は以上です。

筆者あとがき

私が民間から豊橋技科大へ移った時は、まだ国立大学の法人化(2003年)前で、比較的自由に研究ができる環境にありました。エフォート割合で言えば50%以上を研究に注ぐことができたと思います。しかし、法人化以降、徐々に研究に割ける時間は減り、運営、会議などの仕事が著しく多くなっていきました。

思えば、法人化の頃から日本の大学の研究環境は悪くなっていったように感じます。特に、国による運営交付金の毎年 1% 削減といわゆる「選択と集中」は、研究の裾野拡大に全く背を向けた措置で、ことごとく国立大学の研究力を削いできたと思います。

日本の研究力は20年で凋落して来たわけですが、それを取り戻そうとしても20年以上はかかるでしょう。一方で、海外はこれからもそれ以上の改善や進歩をしていくわけですから、勝ち目はないように思えます。

少子化も止められていないわけですから、自動的に高度教育に進む人口も減っていきます。国民がクローニズム、ネポティズムのいまの与党政治を後押しする限りは、予算配分の適正化は望むべくもなく、世界に通用しない日本というのは、仕方のないことかもしれません。

引用文献

[1] Ikarashi, A.: Japanese research no longer world class — here's . Nature published October 25, 2023. https://www.nature.com/articles/d41586-023-03290-1

       

カテゴリー:科学技術と教育

戦略的マスクキングと世界標準から外れた日本のマスク事情

カテゴリー:感染症とCOVID-19 (2023年)

はじめに

日本を含めて東アジアの国々は、一般的に、欧米に比べて衛生対策としてのマスク着用に関する意識が、個人レベルで高い傾向があります。東アジアの国では、普段からマスクの習慣がある一方、欧米ではマスクは病人がするものであり(健康者はしない)、義務化されなければつけないという考え方・習慣の違いがあります。

マスク着用に関するこのような考え方・習慣の違いは、COVID-19パンデミックの初期において日本と欧米の明暗を分けました。すなわち、欧米では、2020年においてCOVID-19のまん延を許し、日本の約100倍の人口比死者数を記録してしまいました。マスク着用がいわゆる「ファクターX」の正体の一つと言われる所以です。

ところが、ワクチン接種プログラムの進行とともにウィズコロナ戦略が始まり、オミクロン流行になってから致死率が低下すると、日本では、流行波の度に最多死者数を更新して来たにもかかわらず、非医薬的介入(non-pharmaceutical intervention, NPI)の強度は弱まってきました。そして、今年 3 月にはマスク着用は、政府が言うところの「個人の自由」になり、COVID-19 の 5 類化を前後して、文部科学省は、学校で「マスク着用を求めない」という基本方針まで打ち出してきました。

日本ではメディアの偏った報道もあって、国民の中には、欧米では一切マスクをしていないし、マスク対策も緩やかという思い込みがあるようですが、そんなことはありません。日本は感染対策として一度たりともマスク着用の義務化を行なったことはありませんが、欧米では義務化を施し、解除し、また一部で義務化を復活させるというより厳しいメリハリのある感染対策を行なっています。

米国の今のマスク着用の考え方は、「戦略的マスク着用(Strategic Masking)」というものです。多くの先進国も基本的に同様な戦略をとっています。つまり、世界標準の戦略的マスク着用とは、もはや義務化がない状態で「いつ、どのような場面でマスクを着用するか」を基本とする方針です。その意味では、当初から日本は戦略的マスキングであったわけですが、今は「マスク着用を求めない」という基本方針になってしまい、世界の潮流からはすっかり脱落してしまいました。

言い換えると、「個人の判断」はどの国でも同じであっても、世界標準ではいつマスクをすべきか」というマスクの目的が維持されているのに対して、日本は「自由に外してよい」という、目的が隅に追いやられた「あべこべの基本方針」になっているわけです。

欧米はワクチンに依存したウィズコロナ戦略をとっています。一方で、COVID-19はまだ終わっていない、この冬には COVID-19、インフルエンザ、RSウイルス感染症トリプルデミックがやってくるという強い警戒感があり、それに向けてのマスク着用の強化も考えられています。

米イェール大学医学部は、先月、戦略的マスク着用についての解説をウェブ上で公開してました [1]。きわめて常識的な内容ですが(米国特有に事情も書かれている)、具体的な指針や提言があって、私たちにも参考になるところも多いです。日本ではすでに忘れられていること、指摘されないこともあります。ここで翻訳して紹介したいと思います。

以下、筆者による翻訳文です。

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食料品店やオフィスの会議など、人々が集まる場所でマスクをしているのが自分だけだと、孤立感を覚えるかもしれない。COVID-19 から身を守るために、マスクをつけることに意味があるのだろうかと疑問に思うかもしれない。

しかし、コロナウイルスは依然として人々を感染させている。この夏は、COVID-19 の感染者数、入院者数、死亡者数が増加し、例年のウイルスの季節的挙動から冬に急増する可能性もある。また、EG.5(エリス)と BA.2.86(ピローラ)という二つの新しいオミクロン変異型があり、これらは以前の変異体よりも感染力が強い可能性がある。

病気をもたらす感染力の強いウイルスは、COVID-19 をもたらす SARS-CoV-2 だけではない。インフルエンザや RS ウイルスも例年病院を圧迫させる。この三つの病気を合わせ、秋から冬にかけてそれぞれの感染者が同時に増加することから、「トリプル・デミック」と呼ばれるようになった。

全米では、最近の COVID-19 の急増を受けて、学校や企業などでマスクの着用が義務化されている。しかし、感染者数や入院者数はまだ例年より少なく、国全体がマスク着用に戻るとは誰も予想していない。つまり、この先人々は、自分を守る最善の方法を自分自身で決めなければならないことを意味するのだ。

COVID-19 患者を診ているイェール大学救急医学の専門医、カレン・ジュバニク医学博士は言う、「COVID-19 やその他の呼吸器疾患から身を守るためのマスクの着用について、人々は今、自分自身で選択するのです」。その結果、一部の人々は「戦略的マスク着用」と呼ばれる方法を採用している。ほとんどの人は常時マスクを着用したいとは思わないし、着用する必要もないが、「戦略的にマスクを着用することは理にかなっています」とジュバニク博士は言う。「個人の感染リスク、高リスクにある大切な人を守る必要性、個人のリスク許容度、特定の地域でウイルスがどの程度流行しているか、これらはすべて考慮すべき要素です」。

イェール医学部の専門家は、マスク着用を検討する際の混乱を防止するために、いくつかの推奨事項を提示している(以下の 1)〜6))。

1. 個人的リスクと、周りの人々のリスクを考慮すること

もし COVID-19 による重症化リスクが高い人の場合(詳細は後述)、 特にウイルスが流行している際には、公共の屋内ではマスクを着用するのが賢明である、とジュバニク博士は言う。自分が住んでいる地域の状況を把握するには、米国疾病予防管理センター(CDC)のCOVID-19の郡別入院数で、地域の入院数が少ないか、中程度か、多いかを調べることができる。

状況は人それぞれである。重症化のリスクが高い場合、CDCは、COVID-19 の入院患者数が中または高水準の時に、あなたやあなたの周囲の人々がマスクや呼吸器(詳細は後述)を着用すべきかどうか、医療従事者に相談することを勧めている。以下の場合、COVID-19 による重篤な結果になるリスクが他の人より高くなる。

●年齢が50歳以上であり、年齢が高くなるほどリスクは高くなる(COVID-19による死亡者の 81% 以上が 65 歳以上であり、これは 18 歳から 29 歳までの死亡者よりも97% 高い)

●年齢を問わず、心臓病、糖尿病、肥満などの特定の持病がある

●妊娠している

●長期介護施設に住んでいる

●健康保険がない、交通手段がない、育児で手が離せない、仕事を休むことができないなど、医療を受けるための障害に直面している(これらの要因は、重度の COVID-19 の一部の症例における人種的、民族的、社会経済的格差の一因となっている)

若くて健康な人も含め、ウイルスが蔓延している地域に住んでいる人は、状況によってはマスクの着用を検討してもよいだろう。個人的なリスクは高くなくても、感染を避け、大切な人を守るために、通常よりも多くの場面でマスク着用を勧める。自分がウイルスに感染しているかどうかはわからないし、症状がなくてもウイルスを広げる可能性があるのだ。

2. 診察室や病院でのマスク着用を考慮する

医師や病院を受診する際のマスク着用は、個人的な選択かもしれない。現在、すべての医療機関でマスク着用が義務付けられているわけではない。 しかし、COVID-19 感染者が最近増加していることを受けて、マスク着用の義務化をやめた医療機関の中には、着用義務を復活させることを検討しているところもある。

7月にニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン誌に発表された論文の著者らは、COVID-19 ワクチンや治療法はこの病気による入院や死亡を減らすのに役立っているが、急性疾患によって患者が特に COVID-19 に感染しやすい病院では、特別な注意が必要かもしれないと述べている。論文で強調されていることは、このような環境でのマスク着用は、あなたや他の人を守るのに役立つだろうということだ。このウイルスは、肺疾患の再燃、不整脈、さらには死亡といった問題を引き起こし、基礎疾患を悪化させる可能性があることを考えておくべきである。

3. 外出時にはマスクを携帯し、使用するかどうかは自ら判断する

マスクは、ある状況では当然と思えるかもしれないが、他の状況では判断が必要である。ある人にとってはリスクが低いと思われる行動でも、別の人にとっては不安に駆られるかもしれない。後者の場合、人は自分が最も納得できることを行なうべき、とジュバニク博士は説明する。

いくつかの例を挙げよう:

ショッピング: 店の規模や人通りを考慮してマスクを着用するかどうかを決める。「天井が非常に高い大きなデパートに入り、長時間誰とも近づかないのであれば、マスクを着用するメリットはそれほどないかもしれません」とジュバニク博士は言う。「しかし、ホリデーシーズン中の小さくて混雑したギフトショップや、十分な換気のない場所であれば、マスクは感染予防に役立ちます」。

レストランでの食事: 当然ながら、食事中にマスクを着用することはできない。外食したいが、心配な場合は、レストランを選ぶようにしよう。

屋外で食事をする方が屋内で食事をするよりも安全である。屋内で食事をする場合は、換気がよく、テーブルが広々としている方が安全である、とイェール大学医学部の感染症専門医であるスコット・ロバーツ医学博士は説明する。

「12月や1月に同じ決断を下すでしょうか? それはわかりません」。「患者数を見てみないとわかりません」とロバーツ医学博士は言う。「冬に患者数が増えれば、外食を控えることになるかもしれません」。

旅行中 :CDC によると、COVID-19、インフルエンザ、風邪などの呼吸器感染症は、帰国旅行者が医療機関を受診する主な理由である。ジュバニク医師は、飛行機で旅行する際には予備のマスクを携帯し、共有し、電車やバスなどの公共交通機関でもマスクをするようアドバイスしている。

教会のサービス: 高齢者や COVID-19 によって重症化し死亡する危険性のある人を含む多くの人々にとって、礼拝に行くことは、パンデミック中に途絶えた重要な共同体意識を提供する、とジュバニク博士は言う。

教会は通常、閉ざされた空間に大人数を迎え入れ、大声で話したり歌ったりし、長時間他の人と近くにいるため、リスクの高い場所と考えられている。「ですから、教会の礼拝に出席する予定があるなら、マスクを着用し、予防接種を受けておくことをお勧めします」と彼女は言う。

重要なイベントや休日 :結婚式、休暇、休日の集まりなど、以前から計画していたイベントを控えている場合、その前の数週間はマスクを着用することで、感染リスクを下げ、いざという時に健康でいられる可能性が高くなる。「少なくとも、人混みの中や公共交通機関の中など、リスクの高い場面では」とジュバニク医師は指摘。「また、考えておかなければいけないことは、久しぶりに家族や友人と集まり、閉ざされた空間で一緒に過ごした後、COVID-19 の陽性反応が出たという報告も多いということです」。

学校に通う子供たちへ: マスク着用を義務化した学校もあるが、ほとんどの場合、マスクは個人の自由である、とイェール大学医学部の小児科医マグナ・ディアス医学博士は言う。しかし、学校でのマスク着用が原因で子供たちがいじめられる事態を懸念している。

「免疫不全の子供がいるのであれば、マスクを着用し、他の人にも親切にしてもらうことを勧めます。これは重要なメッセージだと思います」と彼女は言う。その他、COVID-19 の感染率が高い場所での混雑した状況では、大人と同じようにマスクを着用することが推奨される。「ただし、5歳以下の子供にはマスクを着用させるのは難しいので、リスクの高い状況でない限り、マスクを着用させることはお勧めしません」と彼女は言う。

CDC によれば、SARS-CoV-2 に感染した小児のほとんどは症状が軽いか、全く症状が出ない。一方で、基礎疾患、複数の持病、年齢(特に幼児期)により重症化するリスクが高くなる可能性がある。さらに、COVID-19 の症状が初感染後、数週間、数ヵ月、数年にわたり持続する重篤な症状である長期コロナ症(long COVID)を発症するリスクもある。

4. 室内で他の人と過ごす時間を考慮する

混雑した部屋など、「高リスク」な状況にいると予想される際の時間の長さが重要である。CDC によれば、COVID-19 に感染している人と 15 分以上接触すると、2 分間の接触よりも感染する可能性が高くなるという。「多くの人は、社交的な場や家庭の中で、人々が屋内にいて、密接に接触し、マスクをしていないときに感染します」とジュバニク博士は言う。

イェール大学公衆衛生大学院の研究者らが主導した研究が、8月に Nature Communications 誌に発表された。コロナウイルスに大量に暴露された場合、ワクチン接種および/または事前の感染による防御効果が減少したり、打ち負かされたりする可能性があるという長年の確信が立証された。

イェール大学の免疫生物学者である岩崎明子博士(この研究には参加していない)は、この研究結果は、ワクチン接種を受けている人であっても、マスキングや換気の改善などの緩和策が感染の可能性を減らすのに役立つことを示唆している、とネイチャー誌にコメントしている。

5. 身を守るマスクを着用する

CDC は、SARS-CoV-2 の感染を防ぐマスクと呼吸マスクの種類を具体的に示している。フィット感のある使い捨てサージカルマスクから KN95、NIOSH(National Institute for Occupational Safety & Health:米国労働安全衛生研究所)認定の呼吸マスク(N95 を含む)まで、さまざまな保護レベルを提供するマスクの選択肢について説明している。NIOSH は、顔にフィットし、常に着用できる最も保護力の高いマスクを着用することを勧めている。

6. マスクを唯一の予防策にしないこと

戦略的に着用するにしても、常時着用するにしても、マスクは感染リスクを減らすことができるが、完璧ではない。「混雑した部屋でマスクをしているのが自分だけなら、全員がマスクをしている場合よりも予防効果は低くなります」とロバーツ医師は言う。

だからこそ、マスクは呼吸器感染症から身を守るための数ある戦略のうちの一つであるべきなのだ。特にこの冬は、SARS-CoV-2、インフルエンザ、RSV が同時流行すると予想されている。

防御の第一線はワクチン接種である、とロバーツ博士は言う。この秋は、毎年恒例のインフルエンザワクチンに加え、9月初旬に FDA と CDC によって承認された COVID-19ブースターショットが、生後6ヶ月以上のすべての人に接種される。また、高齢者向けのワクチンや、乳幼児向けのモノクローナル抗体や、妊婦が生後 6 ヶ月までの新生児を守る抗体を得るために接種するワクチンなど、幼児向けの RSV 治療など、RSV 感染症の新しい予防法もある。

病人に近づかないこと、他人との距離を 6 フィート(約 1.5 メートル)保つこと、屋内の混雑した場所を避けること、きちんと手を洗うこと、空気清浄機を利用することなども効果がある、とロバーツ博士は言う。

また、マスク着用による予防効果は 100% ではないが、ゼロよりはましだとロバーツ博士は付け加える。「私は戦略的にマスクをするつもりですし、COVID-19 の数値が上がれば、どこでもマスクをするでしょう」と彼は言う。

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翻訳文は以上です。

筆者あとがき

日本では、パンデミック下でマスク着用は一度も義務化されたことはありません。あくまでの場面や場所に応じた推奨のみですので、もとより着用するか、着用しないかは個人の判断であり(同調圧力はしばしば存在する)、政府が「着用を求めない」というのは、法的にも感染対策の上でもおかしいです。その上で、日本人は当初より自主的にマスクを着けてきたと言えます(最初から今まで自主判断)。このあたりは、文化・習慣も含めて、米国とは少々事情が違います。

とはいえ、イェール大学医学部のマスク着用に関する解説(戦略的マスク着用)はきわめて常識的であり、日本人ならだれでも理解できる内容です。他の先進国でも基本的に同様な戦略をとっています。もし理解から外れるとしたら、日本政府、厚生労働省文部科学省、その他一部の専門家による「マスク外し」方針のプロパガンダ、メディアの偏向海外紹介に汚染されてしまったのかもしれません。

もはや義務化はしないから、あとは自己判断でTPOでマスク着用を考えろという目的を明確化している世界標準に対して、日本は当局がマスク着用の目的をすっ飛ばして「着用を求めない」、「自由に外してよい」としていることは、行政の詭弁と科学情弱の姿をさらけ出しています。

引用文献

[1] Katella, K.: Can ‘Strategic Masking’ Protect Against COVID-19, Flu, and RSV? Yale Medicine September 15, 2023. https://www.yalemedicine.org/news/can-strategic-masking-protect-against-covid-19-flu-and-rsv

       

カテゴリー:感染症とCOVID-19 (2023年)

感染症流行に際して免疫負債論を考える

カテゴリー:感染症とCOVID-19 (2023年)

はじめに

フランスの医師らによって提唱された「免疫負債(immune debt)」仮説 [1] は、閉鎖的生活などによって長らく病原体に曝されない状態が続くと免疫が低下し、社会生活が正常に戻ったときに感染症に罹りやすくなるというものです。特に、COVID-19 パンデミック下での行動制限、社会的距離の確保、マスク着用などの非医薬的介入(non-pharmaceutical interventiion, NPI)、子供の免疫発達を阻害し、社会活動の回復と感染対策の解除に伴って、感染症にかかりやすくなったとしながら、最近の感染症流行の説明に使われています。

世界的に COVID-19 感染対策の解除、緩和後に、様々な感染症RSウイルス [RSV} 感染症、季節性インフルエンザなど)が流行し始めたのは事実です(後述)。これは、単純に感染対策を放棄したから感染症がまん延するようになったと説明する専門家が多いですが、一部では免疫負債論を支持する専門家もいます。特に、日本では、テレビやメディア記事に登場する医者や専門家は、こぞって免疫負債論を展開しています。この影響は、テレビのニュースやワイドショーまで及んでいて、MC やコメンテータまでもが、「コロナ禍で免疫が低下」というフレーズをさも当然のように口にしています。

免疫負債論はあくまでも仮説で、これまでいかなる科学的証拠も提示されていません。現状では、代替的説明を取り上げることもなく、感染症のまん延をすべて免疫負債で説明しているだけに過ぎません。事実、この仮説は多くの批判を生んでいます(→免疫負債?)。

免疫負債論の提唱者であるロバート・コーエン(Robert Cohen)らは、半年ほど前に、先の見解論文 [1] の続報(論説)を同じ雑誌に発表しました [2]。ここで紹介しながら、昨今の感染症の流行について、果たして免疫負債で説明できるのか、その原因を考えたいと思います。

1. コーエンらの続報

コーエンらの論説では、のっけから証拠を示すことなく、NPIの導入が免疫低下をもたらしたと主張しています。以下に翻訳して引用します。

過去3年間、悪夢のような COVID-19 パンデミックは、他の多くの小児感染症の疫学に影響を与える前例のない NPI を課した 。長期にわたる多くのウイルスや細菌への曝露が減った結果、ありふれた様々な病原体に対する免疫刺激が不足し、これらの病原体に対する「ナイーブ」集団が拡大し、集団免疫が低下した結果、小児がこれらの感染症にかかりやすくなった。

このような背景に鑑み、1 年半前に、私たちのグループは「免疫負債」という概念を本誌で提唱した。簡単に説明すると、感染対策が解除された後、重症度の異なる多くの感染症が疫学的にリバウンドし、1年を通して予測不可能な流行が起こることを懸念した。世界的に、多くの研究者が、「免疫ギャップ」とも呼ばれる私たちの「免疫負債」の概念に同意する論文を発表した。

この続報を発表するに至った動機について、コーエンらは、免疫負債論の概念が誤解され、単純化されすぎたために、ウェブメディアや SNS 上で多くの論争や極論が生じ、反発が起こったことを挙げています。そして、この概念の反論者たちが十分に理解していなかった点を明らかにし、彼らの革新的な仮説の概要を伝えることを目的としたと述べています。そして、以下のような断り書きがあります(翻訳引用)。

COVID-19 のパンデミックを封じ込めるために、NPI の実施が必要であったことには全面的に同意する。しかし、あらゆる治療手段と同様、予期せぬ結果を招いた可能性があることも確信している。

私たちは、NPI が個人の免疫能力を低下させるとか、RSV やインフルエンザウイルスなどの病原体への曝露が不足すると、免疫系に取り返しのつかない損傷を与える可能性があると断言したことはない。私たちは、病原体への曝露が不足することで、NPI が特定の病原体に対する適応免疫を低下させる可能性があることを示唆しただけである。

コーエンらは、この続報においても、感染症の増加についてすべてを免疫負債で説明していて、他の可能性のある説明は一切行なっていません。例えば、この冬、多くの国で多数の乳児が細気管支炎で入院したとすれば、それは、特に幼い乳児を持つ親を含む全住民が呼吸器系ウイルスRSV など)に感染しやすくなり、地域社会での流通と伝播が増加したことが一因であると述べていますが、これ自体は考えられうることです。さらに、一部の母親は新生児に RSV 抗体を感染させ、新生児の防御力を低下させている可能性があるとも述べています。

問題は、このようなウイルス感染症の増加を「免疫負債は返済期限を迎え、利子をつけて支払われようとしている」という表現で語りながら、フランスでの前例のない気管支炎の流行は免疫負債概念の信憑性を高めていると断定していることです。

免疫負債論の拠り所としているのが、コーエンらが実施したフランスの市中感染ネットワークにおける感染症の動向についてのサーベイランス研究です。この研究では、2020 年に感染症が減少した後、2021 年に従来にないレベルまで増加していることが示されています。エンテロウイルス感染症のみならず、中耳炎、胃腸炎についても、同様の結果が報告されているとして、これらのアウトブレイクの激しさは、免疫負債概念の妥当性を後押しするものであると断定しています。

さらに、英国の例を挙げながら、COVID-19 のパンデミック封鎖により、青少年が髄膜炎菌に暴露される機会が減少し、保菌率が低下したため、この集団では別の「免疫負債」が生じた可能性があるとしています。今後数週間から数ヶ月の間に、侵襲性髄膜炎感染症だけでなく、肺炎球菌感染症、さらには A 群溶血性連鎖球菌(GAS)感染症の増加が懸念されるとして、これは小児におけるウイルス性疾患の復活にも部分的に起因していると主張しています。

結論として、上記の知見は、免疫負債という一般的な概念を裏付けるものであり、それは病原体や感染経路の違いにより、様々なレベルで現れる可能性があると述べています。そして、各国は、免疫負債がもたらす結果を抑えるために、予防接種プログラムを強化し、感染症サーベイランスを改善する必要があると主張しています。

コーエンらの主張には矛盾もあります。NPI が集団的な免疫低下をもたらし、感染症の増加を促すと言っているのに、子どもの感染症が増えると、今度は「NPI を実施しろ」と言っているのです(以下翻訳引用)。

病院の救急サービス、病棟、集中治療室が過負荷になるような新たな流行パターンは、保健当局によって予測されていたはずであり、緊急かつ具体的な適切な対応が必要である。幼い子どもたちを守るため、また免疫負債がもたらす結果を打ち消すために、幼い子どもたちを対象とした NPI を迅速に実施すべきである。

2. 国内の感染症の流行

日本では、テレビやウェブ記事に登場する専門家や医師が、コロナ禍での感染症の増加をこぞって免疫負債で説明しています。ここで、コロナ禍の日本において感染症の流行はどうであったか、モデルナジャパンの疫学情報と国立感染研究所の情報 [3] を参照しながら、見ていきましょう。

図1は、モデルナのサイトから転載した COVID-19 と季節性インフルエンザの患者数の推移を示します。COVID-19 は第 6 波から現在(9 波)に至るまでが示されていますが、第 6 波流行が起こった 2021〜2022 年の冬にインフルエンザ流行は見られず、2022〜2023年の冬になって流行が戻っていることがわかります。そして、この夏からの季節外れの異常な流行になっているわけです。

図1. COVID-19および季節性インフルエンザの患者数の推移(モデルナジャパンの疫学流こうサイトより転載).

次に、子どもを中心として発生する各々の5類感染症について、年次流行のパターンを見ていきましょう。まずは、季節性インフルエンザです(図2)。横軸は週になっていますが、COVID-19 が 5 類化された 5 月 8 日の週は 19 週目に相当します。前述したように、2020〜2021 年、2021〜2022 年の冬の 2 年間は流行が起こりませんでした。2022〜2023 年になってから例年より低いピークで流行が戻っていますが、それまでの流行のピークの高さには大きな差があることもわかります。

図2. 季節性インフルエンザの年次別流行パターン(文献 [3] より転載).

ちなみに、熱帯や亜熱帯ではインフルエンザは季節性はありません。日本のこの夏からの異常な流行は、感染対策の解除に加えて、ひょっとしたら温暖化の影響もあるかもしれません。

図3は咽頭結膜熱(いわゆるプール熱)の年次パターンを示します。例年初夏に流行しますが、2020 年にはほとんど流行が見られず、2021 年、2022 年はそれまでより低いピークでの流行になっていることがわかります。そして、今年は初夏に続いて秋の異常な流行になっています。このあたりは、インフルエンザの流行の傾向に似ているかもしれません。

図3. 咽頭結膜熱(プール熱)の年次別流行パターン(文献 [3] より転載).

咽頭結膜熱は、アデノウイルス(二本鎖直鎖状 DNA ウイルス)が原因で起こる感染症です。飛沫感染や糞便を介した接触感染で起こります。ウイルスはエンベロープをもたないため、アルコール消毒は効果がなく、感染予防策としては、流水や石けんによるこまめな手洗いや、飛沫を防ぐことが重要です。

図4 は、RSV 感染症の年次流行パターンを示します。この感染症は、RSV(エンベロープを持つRNAウイルス)による呼吸器系感染症で、患者の多くが1歳以下の乳幼児で占められています。例年、秋から冬にかけて流行するとされていましたが、図4 にみられるように、少なくとも 2018 年からは夏から秋にかけて流行しています。2020 年にはほとんど発生しませんでしたが、2021 年に 7 月にピークとする大きな流行がみられ、その後、ほぼ例年の流行パターンに戻っています。ただ、今年の流行は、2021 年と同様に立ち上がりが早くなっています。

図4. RSウイルス感染症の年次別流行パターン(文献 [3] より転載).

2021 年夏における RSV 感染症の流行は世界的傾向でした。北半球の英国や日本だけでなく、南半球のニュージーランドでも大きな流行がありました [4]。英国では、2021 年の夏からウィズコロナ戦略(living with the coronavirus)への方針転換が始まり、マスク着用をはじめとして感染対策が緩和された時期と重なります。

図5ヘルパンギーナです。この感染症は、発熱と口腔粘膜にあらわれる水疱性の発疹を特徴とした急性のウイルス性咽頭炎です。乳幼児を中心に夏季に流行する、いわゆる夏かぜの代表的疾患として知られています。大多数はエンテロウイルス属ウイルスに起因します。感染経路は接触感染を含む糞口感染と飛沫感染です。

上記したように、例年夏に流行していますが、2020 年から昨年にかけては発生数がきわめて少なく、今年になって急激に増加しています。しかも若干早めのピークになっています。

図5. ヘルパンギーナの年次別流行パターン(文献 [3] より転載).

このように各感染症の流行をながめてみると、毎年同じように流行し、コロナ禍で減衰し、かつその減衰パターンは一様ではないことがわかります。コロナ禍での全体的な傾向としては、パンデミック初期の 2020 年には流行は起こらず、その後徐々に流行が回復してきて、2023 年になって異常なパターンが出ているということが言えますが、RSV 感染症のように、2021 年に大流行したものもあります。これは罹患者が免疫が未発達の乳幼児であるか、それよりも年齢が上の子どもであるかの違いやウイルス暴露の変化(後述)が影響していると考えられます。

上記の各感染症に年次流行パターンは、免疫負債論にとって明らかに不利な証拠を提示しているように思えます。免疫負債は、NPI が実施されると免疫が低下し、感染症が増えるというものですが、この説明に従えば、コロナ禍以前は NPI がないので、免疫は獲得された状態になり、一定期間流行は起こらないか、あるいは年(数年)ごとに増加と減衰を繰り返すオシレーションになるはずです。しかし、各々の感染症は、毎年同じようなレベルで流行を繰り返しています。これは免疫負債では説明できません。

コロナ禍での感染症の減衰と昨今の増加は、それぞれ単純に感染対策が強化されたため、それが解除されたためとするのが、一番理解しやすいです。

3. 免疫負債論への批判とそれ以外の仮説

免疫負債仮説は、一部では支持されていますが、それを裏付ける免疫学的証拠はいまのところありません(ちなみに、日本でテレビに出てくる専門家や医師は、なぜかこの仮説を全面的にこれを支持)。海外では多くの専門家が、免疫負債論を批判しており、私たちの免疫システムが機能するためには、常に感染という背景が必要だというのは間違いだとしています [5, 6]。私たちの免疫システムは非常に強固で強力であり、例えば、1918 年に大流行したインフルエンザに対する免疫記憶は、長期間維持されていることは明らかであるとしています。

コーエンらが言う、COVID-19 パンデミック初期に子供たちがウイルスにさらされなかったというのも厳密には正しくありません。例えば、英国においては、ロックダウンが開始されたのは 2019/2020 年の通常の冬の呼吸器感染症の波が去った後であり、学校は 2020 年秋に予防策を変えながら再開されたため、子どもたちは依然として感染症にさらされていました [6]

2021 年には、日本と同様に英国でも RSV が大流行しました。2020 年夏からは、ロックダウンやその他の物理的制限、その他の保護措置によって、おそらく社会のウイルスへの暴露は減少したでしょう。同時に、2021 年からは、感染対策の緩和や海外渡航再開への動きが始まりました。一部の子供たちにとっては、RSV などのウイルスに初めて暴露される時期や年齢が変化したことが考えられます。そのことによって、初めてウイルスに暴露される乳幼児の RSV 感染症の大流行を招いたのかもしれません [6]

人々が感染にさらされる時期が変化して感染が急増したからといって、必ずしも個人の免疫が損なわれているとは限りません。コーエンらのように、昨今の感染症の流行をすべて免疫負債で説明しようとするのは無理があります。

コロナ禍での感染症の増加に対するもう一つの考え方は、COVID-19 が私たちの免疫システムにダメージを与え、感染者がインフルエンザなどの他の感染症にかかりやすくなっているのではないかという疑問です [6]SARS-CoV-2 は、他の多くのウイルスと同様、宿主の免疫、特に新型の免疫を回避したり、細胞内でウイルスを検出する免疫細胞の能力を妨害することが示されています。しかし、このような変化が、他の感染症に対する免疫に影響を及ぼすかどうかは明らかになっていません。

SARS-CoV-2 は、多くのウイルスと同様、すべての感染者に同じように症状をもたらすわけではありません。高齢者や糖尿病や肥満などの基礎疾患を持つ人など、特定のグループが COVID-19 に罹ると重症化しやすいことはよく知られています。この脆弱性は、炎症を引き起こすSARS-CoV-2に対する不規則な免疫反応と関連しており、例えば、リンパ球数の減少や貪食細胞として知られる免疫細胞の変化が見られます。

それでも、これらの脆弱な人々のほとんどは、その後 2〜4ヵ月で免疫系が正常に戻りますし、ほとんどの人にとって、COVID-19 感染後の免疫障害を示唆する証拠はありません。ごく一部の患者、特に重症患者や基礎疾患を持つ患者では、感染後 6 ヵ月を過ぎても何らかの変化が残っている場合がありますが、これらの重要性は明らかではなく、基礎疾患による免疫機能への影響を考慮した長期的な研究が必要です。

この面で注目されるのは、最近の研究で、重度の COVID-19 は、病原体に対する防御の第一線である自然免疫系に、長期にわたる変化を引き起こす可能性があることが示されたことです [7]。この研究では、SARS-CoV-2が遺伝子発現の変化を引き起こし、最終的に炎症性サイトカインの産生を促進すること、感染初期に作用する IL-6 が、重症患者における長期的な炎症の主要な促進因子である可能性が高いことが示唆されています。

免疫システムの変化で言えば、SARS-CoV-2 スパイクタンパク質をコードする mRNA ワクチンは負の影響を及ぼし、特に基礎疾患患者にワクチンを反復(ブースター)接種すると免疫が弱まるという仮説があります。一部は陰謀論とも言われていますが、いずれも決定的な証拠は得られていません。

最近出版された総説や論説では、mRNA ワクチンの繰り返し接種による IgG4 抗体レベルの増加に触れています [8, 9]mRNAワクチンによる IgG4 の増加は、IgE 誘導作用を抑制することによって、免疫の過剰活性化を防ぐという保護的役割を果たす可能性というよりも、むしろ、スパイクタンパク質に対する免疫寛容である可能性が指摘されています。つまり、mRNA ワクチンの繰り返し接種が、自然な抗ウイルス反応を抑制することによって、SARS-CoV-2 の感染と複製を阻止できなくなる可能性があるということです。

また、日本の研究では、透析患者への 5 回の mRNA ワクチン接種で、SARS-CoV-2 に対する液性免疫は維持されていたものの、一部に細胞性免疫反応性が低下したことが報じられています [10]

これらのネガティブな結果は、mRNA ワクチンを接種したすべての人に影響するわけではないと思われます。遺伝的感受性、免疫不全、合併症のある人は、おそらく最も影響を受けやすいでしょう。しかし、COVID-19 に対して脆弱な人たち(高齢者、糖尿病患者、高血圧患者、免疫不全者)が、mRNA ワクチンの反復接種による悪影響を受ける可能性も高いとすれば、彼らをブースター接種することは適切なのか?というパラドックスを生じます [8]

現時点では、mRNA ワクチンの反復接種がもたらす IgG4 レベルの上昇による悪影響があるとしても、それを正確に解読することは困難です。とはいえ、これらの所見を考慮すると、公衆衛生における COVID-19 ワクチン接種、ブースター接種の妥当性を再考することが急務でしょう [9]

以上のように、免疫負債、COVID-19 罹患、ワクチン接種の影響について、いずれもが免疫低下に関連して仮説が立てられているわけですが、それらが感染症増加の要因になっているかどうかは、依然として不明です。

おわりに

感染症の流行を考える際に、感染対策を施せば感染症が減り、それを解除すればまた増えると考えるのが一番わかりやすいです。過去10年間の様々な感染症の年次流行パターンは、これを支持しているように思えます。この単純な考えをすっ飛ばして、科学的証拠もない状態で、免疫の変化に基づく免疫負債で説明するのは、やはり無理と言うべきものでしょう。

免疫負債はあくまでも仮説の段階であり、検証を待たずして、言いっぱなしの状態ではよくありません。なぜなら、「感染することによって免疫を鍛える」という逸話を生む原因となり、子どもの命や健康を危険に曝すことにもなりかねないからです。最新の研究データは、幼児が呼吸器系感染症に罹ることによって、免疫の発達と連動している呼吸器粘膜表面のマイクロバイオームの構築に障害が生じ、生涯にわたる肺の健康に影響を及ぼす可能性があることを示しています [11]

その意味で、メディアに登場す日本の専門家や医者が、こぞって免疫負債を持ち出して感染症の増加を解説している姿は無責任としか言いようがありません。

引用文献

[1] Cohen, R. et al.: Pediatric Infectious Disease Group (GPIP) position paper on the immune debt of the COVID-19 pandemic in childhood, how can we fill the immunity gap? Dis. Now. 51, 418-423 (2021). https://doi.org/10.1016/j.idnow.2022.12.003

[2] Cohen, R. et al.: Immune debt: Recrudescence of disease and confirmation of a contested concept. Infect. Dis. Now. 53, 104638 (2023). https://doi.org/10.1016/j.idnow.2022.12.003

[3] 厚生労働省国立感染症研究所: IDWR感染症週報. 25, 2023年第40週(10月2日〜10月8日). https://www.niid.go.jp/niid/images/idwr/pdf/latest.pdf

[4] Hatter, L. et al.: Respiratory syncytial virus: paying the immunity debt with interest. Lancet Child. Adolesc. Health 5, e44-e45 (2021). https://doi.org/10.1016/S2352-4642(21)00333-3

[5] Wright, T.: ‘Immunity debt’: Why experts say this new term promotes COVID-19 ‘misinformation’. Global News Nov. 12, 2022. https://globalnews.ca/news/9272293/immunity-debt-covid-19-misinformation/

[6] Cruickshank, S.: Does COVID really damage your immune system and make you more vulnerable to infections? The evidence is lacking. The Conversation January 20, 2023. https://theconversation.com/does-covid-really-damage-your-immune-system-and-make-you-more-vulnerable-to-infections-the-evidence-is-lacking-197253

[7] Cheong, J.-G. et al.: Epigenetic memory of coronavirus infection in innate immune cells and their progenitors. Cell 186, 3882-3902 (2023). https://doi.org/10.1016/j.cell.2023.07.019

[8] Uversky, V. N. et al.: IgG4 antibodies induced by repeated vaccination may generate immune tolerance to the SARS-CoV-2 spike protein. Vaccines 11, 991 (2023).  https://doi.org/10.3390/vaccines11050991

[9] Pillai, S.: Is it bad, is it good, or is IgG4 just misunderstood? Sci. Immunol. 8, eadg7327. https://www.science.org/doi/10.1126/sciimmunol.adg7327

[10] Tani, Y. et al.: Five doses of the mRNA vaccination potentially suppress ancestral-strain stimulated SARS-CoV2-specific cellular immunity: a cohort study from the Fukushima vaccination community survey, Japan. Front. Immunol. 14, 1240425 (2023).  https://doi.org/10.3389/fimmu.2023.1240425

[11] Lloyd, C. M. and Saglani, S.: Early-life respiratory infections and developmental immunity determine lifelong lung health. Nat. Immunol. Published July 6, 2023. https://doi.org/10.1038/s41590-023-01550-w

引用したブログ記事

2022年11月22日 免疫負債?

       

カテゴリー:感染症とCOVID-19 (2023年)

「給食時の黙食がコロナ感染に与える影響」研究の問題点

カテゴリー:感染症とCOVID-19 (2023年)

はじめに

最近、「学校給食時の黙食COVID-19の感染に与える影響」という研究が報告され [1, 2]、ウェブ記事やSNS上でも取り上げられて話題になっています [3]。これは、高橋遼氏(早稲田大学准教授)、津川友介氏(米カリフォルニア大学ロサンゼルス校)らの共同研究によるものです(下図)

この研究報告の結論は「給食時の黙食は学級閉鎖数や学級閉鎖率を減少させる効果が非常に小さいので、黙食の要件を解除しても学級閉鎖のリスクは増加しない」、「黙食が子どものスキル形成に副作用を及ぼす可能性があることから、感染対策は子どものウェルビーイングや発達とのバランスを取るべきである」というものです。

つまり、学校での給食時の黙食は感染対策の効果はなく、かえって子どものウェルビーイングの点から問題があるというものです。果たして、この結果と解釈は適切でしょうか。

私はこの報告を精読しましたが、素直な感想は、「この研究では何も新発見はなく、したがっていかなる結論も(何も見いだせなかった以外は)述べることはできない」というものです。主な問題点は、前提となる研究設計に欠陥があること、結果の解釈にバイアスがあること、そして、研究設計不良のまま統計解析で見いだせなかったことを「新発見」として、感染防止策の意義云々以外にも飛躍させて議論していることです。以下に解説します。

1. 研究の背景

この報告の序説にしたがって、研究の背景を述べたいと思います。

COVID-19パンデミックは、2020年後半に有効なワクチンが利用できるようになるまでは、感染防止対策として非医薬的介入(non-pharmaceutical interventions, NPI)がとられました。世界的には大規模なロックダウンがありますが、日本でも行なわれたものとして社会的距離の確保、マスク着用、移動・旅行の制限、学校の閉鎖、接触者の追跡、検査陽性者の隔離などが含まれます。さらに、学校の給食時の黙食という対策もとられました。

日本政府は2020年2月27日、COVID-19の第1波流行を抑えるために休校政策を導入しました。この流行が収束傾向になると休校政策が解除され、同時に政府は、新型コロナウイルス感染症専門家会議の提言に基づき、学校での給食を食べながら話をすることを避けるよう要請する政策を導入しました(いわゆる「黙食」の導入)。

この方針は、COVID-19 ウイルス(SARS-CoV-2)が、主に感染者の咳、くしゃみ、会話時に発生する飛沫を介して人から人へ伝播するという研究結果に基づいて制定されたものです。 この研究報告では、この感染リスクに関連して、レストランでの感染事例を 2 つ挙げています。一つは韓国における研究で、SARS-CoV-2 は 6 メートル以上離れていても感染する可能性があることが示されました [4]。もう一つは米国の例で、ロックダウン後にフルサービスのレストランを再開した場合は、感染事例が、フィットネスセンター、ホテル、モーテルの再開に比べてはるかに多いことが示唆されています [5]

政府は、2022年2月10日に発表した「新型コロナウイルス対策基本方針」の改訂版で、黙食の重要性を正式に表明し、以後、黙食はCOVID-19対策として維持されました。この方針によって、生徒は学校での給食の食事中に会話をすることは許されませんでした。 黙食の推奨は、2022年11月29日に改訂指導要領から削除されるまで、約2年半続きました。文部科学省は、今年4月1日、子どもたちが社会的距離を保つことができる限り、学校での黙食は必要ないとしました。しかし、一部の学校では自主的に給食中の子どもの会話制限を続けています。  

このような状況に鑑み、本研究では、2 年以上前から全国的に黙食が実施されているにもかかわらず、学校での黙食が COVID-19 の発生リスクを減らすのに効果的かどうかについての証拠は不足していると述べています。そして、唯一の科学的根拠は、スーパーコンピューター富嶽」によるシミュレーションであるとしています。その上で、「私たちの知る限り、学校での黙食がCOVID-19の発生確率の低下と関連するかどうかを調べた研究はこれまでない」として、本研究の動機付けを行なっています。

さらに、黙食プログラムは、ウイルスの蔓延を抑える効果に関するエビデンスが乏しいことや、子どもたちの教育達成や発達に影響を与える可能性があることから、政策論争の対象となってきたことを挙げ、黙食が及ぼす子どもの発達への影響に議論を展開しています。

2. 研究の方法と概要

本研究は、黙食の実施に関する学校レベルのばらつきを社会実験として利用し、 COVID-19 感染から生じる臨時学級閉鎖に対する黙食の影響を推定したものです。 この分析には、千葉県が提供したデータを用いられました。 千葉県には54の市に763の小学校と388の中学校があります。私立学校の割合は非常に低く、小学校の1.3%、中学校の6.2%に過ぎず、したがって、千葉県の公立学校を調査すれば、全国的に一般化された結果が得られるだろう、としています。

本研究では、 2 つのデータを組み合わせてパネルデータ(=同一の対象を継続的に観察し、記録したデータ)を作成しました。1つ目のデータセットは、千葉県教育委員会が2023年1月中旬に実施した、給食時の黙食に関する学校レベルの実施状況調査です。このデータには、学校名、黙食義務化の維持・解除の有無、解除された年月が含まれています。黙食を解除した学校は、小学校36校、中学校9校の計45校であり、千葉県内の11都市に分散していることを確認しました。一方、黙食を継続した解析対象の学校は157校です。

2 つ目のデータセットは、各学校における毎日の学級閉鎖に関する行政データです。分析では、このデータセットから、教室レベルでの学級閉鎖の発生、学校レベルでの学級閉鎖の総数、学校レベルでの学級閉鎖の総数に占める割合という 3 つの分析指標を用いました。黙食を解除した学校の多くが 2023 年 1 月 11 日以降にそれを実施しているため、1 月 11 日前後の 73日間(2022年11月1日から2023年2月28日まで、土日祝日を除く)に焦点を当てて分析しました。

この分析では、因果的影響を調べるために、二元配置(双方向)固定効果推定法(TWFE)を用いた差分(DiD)モデルを用いました。学級(教室)レベルでの回帰分析の結果、黙食の実施は、学級閉鎖の確率を-0.2%ポイント(95%信頼区間:-0.5%ポイント、0.1%ポイント)で減少させることが示唆されました。すなわち、減少効果はわずかということです。同様に、学校レベルでは、学級閉鎖の数は-0.023クラスと推定され、学級閉鎖率は-0.2ポイント減少しました。しかし、いずれの場合の効果も統計的に有意ではありませんでした。

研究では、さらに、学級規模に加えて、学区内における自然地域、病院の数、最寄りの病因のまでの距離などを比較するバランス検定を行ないました。しかし、2つのグループの間で、学校特性に統計的に有意な差は見られませんでした。

つまり、黙食の実施は、学級閉鎖の回数を減らす効果はないというのが、今回の研究が導き出した結論です。さらに、異質性の分析によって、黙食の効果は異なる学校特性間で一貫して統計的に有意でないとしています。

考察では、レストランでの会話がCOVID-19感染のリスクを高めるという先行研究結果[4, 5] に言及しながら、なぜ今回の研究結果はそれと一致しないのかという点について、学校特有の環境の違いを挙げています。すなわち、学校での昼食時間は、45分しかなく(実際に食事をする時間は約15分)、大人がレストランで過ごす時間よりもはるかに短い滞留時間であること、生徒は給食の準備時間中もマスクを着用していることを挙げ、黙食が学級閉鎖の減少に大きな影響を与えなかった可能性を示唆しています。

また、新型コロナウイルス感染症対策小委員会が、エアロゾル飛沫感染のリスクへ観点から、換気の徹底を重視する勧告を発表し、文部科学省が厳重な換気対策を定めるとともに、可能な換気方法のガイドラインを示したことに言及しています。 特に換気に重点を置いたこれらの対策は、黙食の影響に比べ、感染リスクを低減させる上でより重要であると考えられると述べています。

さらに、黙食の効果がないという彼らの結論に基づいて、黙食が、むしろ、子どものスキル形成を妨げる可能性があるという、副作用の面を強調する展開になっています。この面での結論は、「感染対策は子どものウェルビーイングや発達とのバランスを取るべきである」というものです。

3. 研究の何が問題か

この研究の最も大きな問題点の一つは、知見の階層化によるバイアスがあります。すなわち、医学や社会学分野などでは、厳密条件下で実施される理工学の実験で得られた知見を、ランダム化比較試験やパネルデータの統計解析の成果の下層におく、あるいは無視するという悪いクセがありますが、それと同様なことが、この報告でみられるということです。

たとえば、マスクの厳密な条件下での飛沫、エアロゾル遮断効果は理工学的に完全に証明されています。ところが、これをわざわざ不確定要素が大きい社会におけるマスク着用に広げて、着用と非着用のランダム化比較試験を行ない、マスクの感染防止効果は認められないとする報告がしばしばみられます。これは、厳密な実験条件下での知見よりも、不確定要素の大きいランダム化比較試験の知見を階層的に上位に置いたために起こる現象です(→マスクのランダム化試験批判)。

本報告では、学校での黙食が COVID-19 の発生リスクを減らす効果についての証拠は不足しているとしながら、唯一の科学的根拠は、スーパーコンピューター富嶽」によるシミュレーション結果だとしています。しかし、これが唯一の例でも何でもなく、会話での飛沫やエアロゾルの発生が感染リスクを高めることは、沢山の理工学実験やシミュレーションで証明されています [6, 7, 8, 9]。そして、著者自身は、スパコンのシミュレーション結果に基づいて「黙食が COVID-19 感染の原因となる飛沫やエアロゾルの発生を減少させ、感染拡大の予防効果をもたらす可能性があることを示唆している」と、黙食自体の効果を述べているのです。

それにもかかわらず、著者らは、きわめて交絡因子が多く不確実性が高い彼らの研究自身で得られた結果を上位にして、会話をしない「黙食」の効果を小さかったとしています。社会実験のデータを厳密なラボ実験のそれよりも上位におくというバイアスのために、シミュレーション実験の成果を認めながら、彼らの研究でそれを否定するという矛盾が起こっているわけです。しかもその矛盾を、著者らは「新しい発見」として昇華させています。実際は、彼らの手法を用いる限り「黙食の実施の有無と学級閉鎖との間に何らかの有意な関係があることを見いだせなかった」ということ以上のものではないのです。

この研究でやるべきことは、まずは階層化バイアスをできる限り除くことです。従来の知見と今回の知見をすべて並列に扱い、少なくとも、シミュレーションの実験成果と、この研究でのデータの矛盾(不一致)は、十分に考察されなければ、意味をなしません。

なぜ矛盾が起こるかと言えば、解釈バイアスのほかに、研究設計の問題が挙げられます。すなわち、二番目の問題点は、黙食の効果を判断するのに、「学級閉鎖数」を選択したことです。この時点で、この研究報告のタイトルのフレーズ(黙食がCOVID-19発生に及ぼす影響)は内容を正確に表していません。

この報告でも述べられているように、黙食の効果を検証するためには、感染予防策として行なっているわけですから、より望ましいアウトカム指標は「感染者数 (検査陽性者数)」であるべきです。ところが、この定量データがないために、代替指標として学級閉鎖数を選択したことが述べられており、感染者数と学級閉鎖数の相関までとられています。

学級閉鎖は、感染者に複数(2〜3人)になれば校長によって発動されます [10]。感染者数に依存して学級閉鎖が決まるわけですから、前者の代替指標と後者が成り立ちそうな気がしますが、学級閉鎖という定性的イベントには、そこに至るまでの感染者数がマスキングされています(感染者が1人であれば通常発動されない)。さらに、同一の学級において、複数の感染者が確認された場合であっても、その感染者の間で感染経路に関連がない場合や、他の関係者等に感染が広がっている恐れがない場合については、学級閉鎖を行う必要はないとされています。

したがって、流行期間における地域の感染者数と学級閉鎖数という大きなスケールで関係を調べれば、当然正の相関が得られることになりますが、一つ一つの学級での感染者数と閉鎖イベントは必ずしも相関しないことが考えられるのです。例えるなら、小選挙区で1人の当選者と落選者の有権者支持率は 100 対ゼロではなく、実際の獲得票数であるわけです。ところが、この研究では、支持率に関して、得票率(感染者数)を無視して当選者(学級閉鎖)で代替しているわけです。

したがって、元々交絡因子と不確定要素がきわめて多い社会実験において、学級での感染者数を正確に反映しない学級閉鎖を選択してしまえば、余計に明確な結果(黙食の効果)が得られないことになり、実際にそうなっている可能性があります。不確定要素が多いとは、感染対策に関わる重要な様々な NPI の貢献度が、各学級や学級閉鎖の事例で不明なことです。

本報告では、この結果を一般化し、実際に使用する際には、3 つの留意点があるとしてます。第一に、黙食ガイドライン解除直後の状況の分析であるので、生徒は会話に慎重になり、COVID-19 予防に注意力を維持していた可能性があること、第二に、黙食を解除した直後は、学校側が感染症に通常以上に注意を払ったり学校全体を通して感染対策が徹底されていた可能性があること、第三に、黙食が変更された千葉県内の 11 市のみを分析対象(黙食を解禁した学校の割合は 22.3%、45/202)であり、この 11 市でもまだ限定的であったこと、を挙げています。

上記の第一、第二の留意点は、定量化しにくい NPI 要素に関することであり、もしこの影響があるとしたら、そもそもこの研究における分析は意味をなさなくなります。このほかにも換気、手洗い、消毒、マスク着用、対人距離の確保などの様々な NPI があります。 第三の問題点と言えることは、本研究は、黙食の介入と比べたこれらの交絡因子の関わりを、分析に全く考慮していないことです。したがって、黙食の効果、黙食解除の影響が的確に捉えられているか、きわめて疑問な点があります。

危機管理におけるリスクの発生防止は、単一の手段に依存するのではなく、様々な対策の和によって、その効果レベルが上がるというスイスチーズモデル(→感染制御のためのバランス理論)の考え方があります。これは感染予防においても当てはまり、マスク、手洗い、換気など、関わる要素が多いほど、感染防止の効果が上がるという理論です。一つの要素の貢献度が非常に高ければ、相対的に他の要素のそれは低くなります。例えば、換気やマスク着用の効果が非常に高ければ、黙食の効果があったとしても、黙食を解除したとしてもその影響は見えにくくなるはずです。

上記の第三の留意点は、黙食継続の 157 校に対して黙食廃止の 45 校という比較サンプルの 不均衡に関することです。両者の 3 倍以上の開きは、結果に多少なりとも影響しているかもしれません。

最後に、第四の問題点として、飛躍した論理展開を挙げます。 給食時の黙食を導入した政府の決定は、会話が感染リスクを高めるという科学的証拠に基づいて、流行時の感染対策優先という基準で実施された、合理的な判断です。校内においては、マスク着用ができない食事中は、感染リスクが最も高くなる機会なのです。一方で、今回の研究は不確実性の高い結果に基づいて、先行の科学的根拠との不一致の考察もなしに黙食の意味がないと否定し、そこから生徒の社会的発達やウェルビーングの問題、さらに学級閉鎖が及ぼす影響に飛躍させています。

もとより、感染対策は生徒の精神的健康とのバランスの上に実施される必要がありますが、そのためにはまず、感染症への実害防止が保障されることが前提であり(学校は第一に安全な授業を行なう責務がある)、病気の質、流行状況などに合わせて様々な NPI の貢献度が的確に捉えられていなければなりません。例えば、換気と室内二酸化炭素のモニターによってその貢献が概ねカバーできれば、黙食を行なう必要はないでしょう。今回の研究は、「政府のガイドラインに柔軟性がなかったために、生徒の人的資本に投資する機会を失ってしまったのかもしれない」と述べていますが、その判断をできるレベルに達していません。

このように、感染対策の介入と精神的健康はそれぞれ個別に的確に検証されるべき事項であるはずです。然るに、第一に「生徒の命と健康」を守り「安全な授業」を達成する目的であるはずの NPI の貢献度を十分に考慮することなく、「感染対策に効果はない」として、そこから子どもの社会的発達やウェルビーイングの問題(これらも科学証拠がない)に飛躍させる一種の誤謬は枚挙にいとまがありません [11, 12, 13]。肝心の安全な授業が置き去りにされているのです。

この研究報告は、文献も引用しながら学級閉鎖や休校が及ぼす生徒への悪影響に言及していますが、このことと本研究の課題である黙食の実施とは直接関係ありません。感染が起こるから休校や学級閉鎖を生じるわけです。明らかに論点の飛躍です。

これらの誤謬の証拠は、感染対策解除後の学校現場で何が起こっているかをみればわかります。いま COVID-19 やインフルエンザの流行で、学級閉鎖と学校閉鎖が続出しています。生徒の健康被害が起き、生徒から貴重な学習の機会を奪い続けているのです。社会的発達云々以前の本末転倒の問題を生じているわけです。

おわりに

今回の高橋らの研究 [1] は、本来何らかの知見を見いだすには到底無理な条件設定で、半ば恣意的なデータセットを用いて解析し、先行の理工学データに対して得られたデータを階層の上位に置き、飛躍した結論に結びつけたということが言えます。研究設計に難点がある研究で、いくら統計解析を行なったとしても、それは単なる数字遊びになってしまうでしょう。

黙食(silent eating)という呼称ですが、これは SNS でも指摘がありましたが、本来食べることのみを行なう、それに集中するということです。この意味で、戦後の小学校給食は長い間黙食でした。少なくとも、私たちの世代は前向きの姿勢で、無駄口を叩かないで食べることに集中するように指導を受けました。

小学校給食におけるわずか45分間(正味15分)の黙食が、もし社会的発達やウェルビーイングの点で問題があるとするなら(現時点でその科学的証拠はない)、それこそ戦後の多くの世代で問題があったということになります。これは戦後教育と日本人全体に関わる大きな問題提起であり、提唱者はその検証研究の責任を負うべきでしょう。

引用文献

[1] Takahashi, R. et al.: The effect of silent eating during lunchtime at schools on the COVID-19 outbreaks. RIETI Discussion Paper Series 23-E-068, 2023. https://www.rieti.go.jp/jp/publications/dp/23e068.pdf

[2] 独立行政法人経済産業研究所: 学校給食時の黙食がCOVID-19の感染に与える影響. https://www.rieti.go.jp/jp/publications/nts/23e068.html

[3] 泰さわみ:「黙食」に学級閉鎖減らす効果確認できず 高橋准教授ら報告. 教育新聞 2023.10.06. https://www.kyobun.co.jp/article/2023100603

[4] Kwon, K.-S. et al.: Evidence of long-distance droplet transmission of SARS-CoV-2 by direct air flow in a restaurant in Korea. J. Korean Med. Sci. 36, e23 (2020). https://doi.org/10.3346/jkms.2020.35.e415

[5] Chang, S., Pierson, E., Koh, P.W. et al. Mobility network models of COVID-19 explain inequities and inform reopening. Nature 589, 82–87 (2021). https://doi.org/10.1038/s41586-020-2923-3

[6] Eiche, T. and Kuster, M.: Aerosol release by healthy people during speaking: possible contribution to the transmission of SARS-CoV-2. Int. J. Environ. Res. Public, Health. 17, 9088 (2020). https://doi.org/10.3390/ijerph17239088

[7] Wang, C. C. et al.: Airborne transmission of respiratory viruses. Science 373, 6558 (2021). https://www.science.org/doi/10.1126/science.abd9149

[8] Singhal, R. et al.: Virus transmission by aerosol transport during short conversations. Flow (Cambridge University Press) 2, E13 (2022). https://doi.org/10.1017/flo.2022.7

[9] Ding, S. et al.: Infection risk of SARS-CoV-2 in a dining setting: Deposited droplets and aerosols. Build. Environ. 213, 108888 (2022). https://doi.org/10.1016/j.buildenv.2022.108888

[10] 伊藤和行: 2~3人感染→学級閉鎖 文科省が休校などの基準提示. 朝日新聞デジタル 2021.08.27. https://www.asahi.com/articles/ASP8W6DWMP8WUTIL022.html

[11] 奥山純子, 門廻充侍: コロナ禍長期化における児童・青年の身体活動メンタルヘルス. ストレス科学研究36, 3–11 (2021). https://doi.org/10.5058/stresskagakukenkyu.2021002

[12] Shobako, N,: Lessons from the health policies for children during the pandemic in Japan. Front. Public Health 10, published October 6, 2022. https://doi.org/10.3389/fpubh.2022.1015955

[13] 高久玲音・王明耀: ポストコロナに向けた子どもたちの学校生活の現状―2022年6月の学校生活調査の結果と予備的解析. 社会保障研究 7, 224–235 (2023). https://ipss.repo.nii.ac.jp/records/489

引用したブログ記事

2023年5月7日 マスクのランダム化試験批判

2023年1月28日 感染制御のためのバランス理論

      

カテゴリー:感染症とCOVID-19 (2023年)

長期コロナ症は血液バイオマーカーで識別診断できる

カテゴリー:感染症とCOVID-19 (2023年)

はじめに

SARS-CoV-2に感染して起こるCOVID-19では、たとえ急性期症状が回復した後でも、長期コロナ症(long COVID)に移行することがあります。日本では罹患後症状(post-COVID-19 conditions)とか、より一般的にはコロナ後遺症と"軽く"よばれることがほとんどです。世界中で多くの感染者が長期コロナ症に苦しんでいると言われていますが、この病気の根本原因はわかっていません。

厄介なのは、長期のコロナ禍で、様々な物理的制約や経済的困難性のために、多くの人々が精神的障害を受けたり、不安や倦怠感などの症状を訴えたりしているわけですが、長期コロナ症の症状はそれらに類似しており、見かけ上区別しにくいことです。実際はコロナ感染後の長期症状で病院を訪れても、医師に「気のせい」、「精神的なもの」として診断されることも少なくありません。職場や学校においても「怠けているんじゃないか」と片付けられることも多いです。

最近、ネイチャー誌に、長期コロナ症患者を正確に識別できる特定の血液バイオマーカーを特定したとする論文が掲載されました [1](下図)。長期コロナ症患者とそうでない患者を高い確率で識別することができるという画期的な研究で、ウェブ記事でもこの研究成果が解説されています [2, 3]。長期コロナ症の生物学的メカニズムの理解が一歩進んだということで、気のせいとか精神的なものとは言えないということです。この記事で紹介したいと思います。

1. 背景

微生物やウイルスなどの病原体に感染すると、急性期の症状から罹患後の発症(日本では後遺症とよばれることが多い)につながることがあります。SARS-CoV-2 に感染した場合でも、たとえ急性期症状が回復した後でも、長期コロナ症(long COVID)に移行することがあります。罹患後症状では、筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群(ME/CFS)のように、広く研究されているものもありますが、これらの病気の根底にある基本的な生物学的性質は不明であり、長期コロナ症についても未解明です。

COVID-19 の特徴の一つは症状の個人差(異質性)です。無症状、軽症、重症などの急性期症状からそのまま症状が長引く患者がいたり、回復後の患者の一定割合で症状が長期にわたって残り、長期コロナ症として現れることもあります。

長期コロナ症の一般的症状としては、疲労・倦怠感、ブレインフォグ、認知障害などの衰弱症状があります。長期症状の比較的有病率は高く、多くの論文を集約すると、COVID-19患者の約8人に1人が持続的な症状を経験していることが示唆されています。米国疾病予防管理センター(CDC)によれば、米国では成人の13人に1人(7.5%)が COVID-19に罹患した後、3 ヶ月異常の長期症状が続いているとされています。これらの多くは病因が不明ですが、原因の一つとして、組織内にウイルスが残り、自己免疫を活性化させたり、様々な障害を引き起こしたりするためと考えられています。

上述したように、長期コロナ症の主症状の一つである疲労感や認知障害は、ほかの病気でも幅広く見られるものであり、その正確な診断は決して容易ではありません。少なくとも、SARS-CoV-2 にいつ感染したかを、検査でしっかり確定診断しておくことが必要です。今回の研究は、なぜ長期コロナ症が存在するのかについての新たな証拠を提供するものであり、この病気の診断と治療に大きく道を開くものと言えるでしょう。

2. 研究の概要

本研究 [1] は、米マウントサイナイ(Mount Sinai)大学アイカーン医学部とイェール(Yale)大学医学部が主導したもので、責任著者の一人は岩崎明子氏(イェール大医学部免疫生物学科教授)です。長期コロナ症患者は、免疫とホルモンの機能において、そうでない患者と明らかな違いがあり、特徴的な血液バイオマーカーで識別できることがを立証されました。重要な事実・成果として以下のように要約されます。

●本研究は、長期コロナ症患者を正確に識別するための特定の血液バイオマーカーを同定した初めての例である

機械学習アルゴリズムを利用することにより、96%の精度で長期コロナ症患者とそうでない患者を識別することができた

●最も注目すべきバイオマーカーの相違は、免疫の混乱、潜伏ウイルスの再活性化、コルチゾールレベルの著しい低下であった

●長期コロナ症に対する有効で信頼できる血液検査プロトコルの開発と個別化治療法に役立つ決定的な前進である

研究チームは、2021 年 1 月から 2022 年 6 月までの間に、マウントサイナイ病院、マウントサイナイ・ユニオンスクエア、イェール大学医学部の 3 施設における合計 271 人の患者を分析しました。これらの患者は、SARS-CoV-2 感染の既往がない人、臨床的に COVID-19 感染が確認された症例から完全に回復した人、COVID-19 感染が確認された後少なくとも 4ヵ月以上長期症状が長く続いている人(長期症状の中央値は急性感染から 12ヵ月)で構成されています。

各患者は、症状、病歴、健康関連 QOL(quality of life) に関する詳細な質問票に回答するよう求められました。これらの患者の長期症状には、認知障害、ブレイン・フォグ、極度の疲労、息切れ、慢性疼痛などがありました。

研究チームは、すべての患者から血液検体を採取し、グループ間のバイオマーカーの相違点と類似点を特定した後、機械学習分析を適用しました。このアルゴリズムを用いて長期コロナ症を特定するのに最も効果的なバイオマーカーを探索しました。

結果として、長期コロナ症群の患者の血液から検出された特徴的な特徴に基づいて、これらを検出することができました。このアルゴリズムによる長期コロナ症の識別精度は96%でした。長期コロナ症群と 2 つの対照群との間で最も顕著な違いのいくつかは、以下のように、免疫とホルモンの機能障害に関連していました。

長期コロナ症患者では、単球、ダブルネガティブ B 細胞、インターロイキン(IL)-4/6を分泌する CD4 T 細胞の数は増加していましたが、抗原提示や細胞傷害性 T 細胞のプライミングを担う樹状細胞(DC)1やセントラルメモリー CD4 T 細胞の数は減少していました。さらに、これらの患者由来の脳脊髄液には、T 細胞免疫グロブリンおよびITIMドメイン(TIGIT)+CD8+ T 細胞が多く認められ、免疫疲弊の可能性が示唆されました。

一方で、ヒトエキソプロテオームに対する自己抗体は、長期コロナ症群と二つの対照群とでは、有意な差はありませんでした。それゆえ、長期コロナ症の病因として、自己反応性 T 細胞が関与しているかどうかは、今後の研究が必要です。

また、長期コロナ症群では、SARS-CoV-2、水痘帯状疱疹ウイルス(VZV)に対する抗体が多く、特にヘルペスウイルスの一種であるエプスタイン・バーウイルス(EBV)抗原に対する抗体が多く見られました。これまでの研究で、EBV 血症は COVID-19 で入院した患者にもみられることが明らかにされていますので、長期症状に移行する場合の独立した予測因子とみなすことができます。EBV 溶解抗原に対する IgG の上昇は、潜伏ヘルペスウイルスの再活性化が、長期コロナ症患者の共通の特徴である可能性を示唆しています。

さらに、研究チームは、二つの長期コロナ症患者のコホートにおいて、コルチゾールのレベルが大きく低下していることを見いだしました。これは副腎皮質刺激ホルモン(ACTH)濃度の代償的増悪とは関連していなかったことから、長期コロナ症では、コルチゾールを調節する視床下部-下垂体軸の反応を鈍らせた可能性が高いことが示唆されました。とはいえ、ACTHは血漿中での半減期が極めて短いため、今後の研究でこれらの予備的知見を確認する必要があります。

この研究成果は、長期コロナ症に罹患している人々が、この研究で規定された血液検査プロトコールで観察可能であることを示しています。そして、長期コロナ症患者は、患者固有の病歴と異なる疾患プロセスを抱えて生きていることを示しており、その治療と医学的管理においては、きわめて個別化されたアプローチを採用しなければならないことを示しています。

ウェブ記事では、本研究成果に関する岩崎明子氏の見解が紹介されています [2]。「私たちは、長期コロナ症を持つ人と持たない人で、このような免疫表現型の明確な違いが見られることに興奮している。これらのマーカーは、より大規模な研究で検証される必要があるが、長期コロナ症の病態解明の第一歩となる」。

おわりに

今回の研究で、長期コロナ症を発症している人は、特定の血液バイオマーカーを利用して、他の類似の症状とは識別診断できることがわかりました。診断・治療に向けての大きな前進とも言える成果です。さらに、これらの人々は、異なる疾患プロセスを抱えており、その治療においては個別化された対応が必要ということも明らかになりました。

つまり、医師は長期コロナ症患者の声によく耳を傾け、様々な生理学的検査や臨床検査を行いながら、この病気に対して個別化された医学的管理アプローチを採用しなければならないということです。長期コロナ症の患者と診断・治療する医師の両方に光明を与えるとともに、新たな認識の必要性を促すものでしょう。

長期症状を含めて COVID-19 は免疫やホルモン調節などの複雑なシステムに浸潤する病気であるため、いまのところ治療のための 「特効薬 」はありません。複雑な病気には複雑な治療法が必要であり、この病気の理解を深め、新しい有望な治療法を発見するためには、より多くの研究が必要です。

引用文献

[1] Klein, J. et al. Distinguishing features of Long COVID identified through immune profiling. Nature Published September 25, 2023. https://doi.org/10.1038/s41586-023-06651-y

[2] Nikravesh, I.: Blood Biomarkers Highlight Immune Disruption in Long-COVID. Neuroscience September 25, 2023. https://neurosciencenews.com/long-covid-biomarkers-23975/

[3] Mathur, N.: Long COVID's biological blueprint: new study offers promising insights. News Medical. September 27, 2023. https://www.news-medical.net/news/20230927/Long-COVIDs-biological-blueprint-new-study-offers-promising-insights.aspx
             

カテゴリー:感染症とCOVID-19 (2023年)

SARS-CoV-2感染は動脈硬化を促す炎症反応を引き起こす

カテゴリー:感染症とCOVID-19 (2023年)

SARS-CoV-2 は呼吸器系ウイルスとして知られていますが、このウイルスが原因で起こる COVID-19 は、全身性疾患の感染症であり、無症候性感染から急性呼吸困難、多臓器不全、死亡に至る多様な臨床症状によって特徴づけられます。とくに、パンデミック当初から循環器系への影響が注目されていて [1]心血管系疾患および脳卒中の増加との関連が指摘されてきました。急性心筋梗塞脳卒中などの虚血性心血管イベントは、慢性的に炎症を起こしたアテローム動脈硬化プラークが根底にあり、COVID-19の臨床的合併症として確立しています [2, 3]

COVID-19患者はインフルエンザ患者に比べて 7 倍以上脳卒中を発症しやすく [4]、急性心筋梗塞脳卒中のリスクは感染後 1 年間も高いままです [5]。COVID-19の重症例で起こる著しい炎症反応(サイトカインストーム)は、急性心筋梗塞脳卒中のリスク上昇の一因であると考えられますが、SARS-CoV-2が冠血管系に直接作用する可能性については、ほとんど未解明でした。

今回、最新の研究で、SARS-CoV-2 が心臓の動脈に直接感染し、動脈内の脂肪プラークに強い炎症を引き起こすことが明らかになり、あらためて心臓発作や脳卒中のリスクが高まる可能性がわかりました。この研究は、米国国立衛生研究所(NIH)の資金援助を受けて実施されたもので、その成果は、今年8月にプレプリントサーバーの一つであるバイオアーカイヴ(bioRxiv)に投稿されていましたが、今回ネイチャー系雑誌の一つに掲載されました [6]下図)。NIH は早速この研究結果を解説しています [7]

この研究では、COVID-19 で死亡した高齢患者を対象として、動脈硬化プラークとして知られる脂肪の蓄積に、当初焦点を当てていました。しかし、研究チームは、調べるうちに、プラークのレベルに関係なくウイルスが動脈に感染し、複製することを発見しました。このことにより、COVID-19 に罹患した人すべてに広く影響を与える可能性があることが分かりました。

これまでの研究で、SARS-CoV-2 が脳や肺などの組織に直接感染することは示されていましたが、冠動脈への影響についてはあまり知られていませんでした。ウイルスが細胞に到達すると、体内の免疫システムがマクロファージ(貪食細胞、白血球の一種)を送り込み、ウイルス除去に働くことは認識されていました。一方で、動脈においては、マクロファージはコレステロールを除去する働きもあり、コレステロールが過剰になると、泡沫細胞と呼ばれる特殊な細胞に変化します。

そこで、研究者チームは、もし SARS-CoV-2 が動脈細胞に直接感染すれば、通常野放しになっているマクロファージが既存のプラークの炎症を増大させるのではないかと考えました。この辺りの経緯は、この研究の責任著者であるキアラ・ジャンナレリ(Chiara Giannarelli)医学博士(ニューヨーク大学グロスマン医科大学医学部および病理学教室の准教授)が説明しています [7]

研究チームは、COVID-19 で死亡した人の冠動脈とプラークから組織片を採取し、その検体中にウイルスが存在することを RT-PCRRNA 標的 in situ hybridization で確認しました。次に、健康な患者から動脈とプラークの細胞(マクロファージと泡沫細胞を含む)を採取し、培養シャーレの中でSARS-CoV-2に暴露させたところ、ウイルスがこれらの細胞や組織にも感染することがわかりました。

SARS-CoV-2 感染率を比較したところ、ウイルスがマクロファージに感染する率は他の動脈細胞よりも高いことがわかりました。コレステロールを多く含む泡沫細胞は最も感染しやすく、ウイルスを容易に排除することができませんでした。このことから、泡沫細胞は動脈硬化プラーク内で SARS-CoV-2 の貯蔵庫として働いている可能性が示唆されました。つまり、プラークの蓄積量が高く、泡沫細胞の数が多いほど、COVID-19 の重症度や持続性が増す可能性があるということになります。

研究チームは、さらに、ウイルス感染後にプラークで起こる炎症に注目しました。その結果、炎症を増長させ、プラークの形成をさらに促進することが知られているサイトカイン分子が放出されることが、すぐに確認されました。サイトカインは感染したマクロファージと泡沫細胞から放出されました。

結論として、今回の研究結果は、SARS-CoV-2 がプラークや冠動脈内のマクロファージに感染し、複製することを決定的な証拠を提示しています。感染したプラークのマクロファージと泡沫細胞によって組織化される炎症亢進反応が、COVID-19の急性心血管系合併症に関連することが強調されています。

この知見は、プラークが蓄積している人がCOVID-19に感染すると、長い年月が経過しても心血管系の合併症が起こる理由、あるいはすでに発症している場合、心臓関連の合併症がより多く発症する理由を説明する一助になるでしょう。最終的には、これは、急性期のCOVIDと長期のCOVIDの両方に関する将来の研究に役立つ情報です。

注意しなければならないことは、この研究は、COVID-19パンデミックの初期に発生した症例に限定されていることです。得られた知見は、2020年5月から2021年5月の間にニューヨーク市で流行した原型のウイルスのみに関連しています。

さらに、研究対象の患者が限られていることも考慮する必要があります。すなわち、アテローム動脈硬化症やその他の病状、合併症を有する高齢者の小規模コホートの解析に限られています。したがって、この研究結果を、直ぐに若い健康な人に外挿することはできないと論文で述べられています。

とはいえ、上記したように、初期の研究で、SARS-CoV-2に感染した若年成人の頸動脈硬化および大動脈硬化が高いことも明らかになっていますし [8]、若年成人感染者が動脈硬化の様々なマーカーを改善するためには、感染からの回復に数カ月が必要であることも報告されています [9]。要は、少なくとも高脂血症、高血圧、糖尿病などの傾向があるという場合には、年齢に関係なく、SARS-CoV-2に関連する心血管系合併症のリスクを考慮すべきであるということではないでしょうか。

引用文献

[1] Vargas, Z. et al.: Endothelial cell infection and endotheliitis in COVID-19。Lancet 395, 1417–1418 (2020). doi: https://doi.org/10.1016/S0140-6736(20)30937-5

[2] Lamers, M. M. & Haagmans, B. L.: SARS-CoV-2 pathogenesis. Nat. Rev. Microbiol. 20, 270–284 (2022). https://doi.org/10.1038/s41579-022-00713-0

[3] Engelen, S. E., Robinson, A. J. B., Zurke, Y. X. & Monaco, C. Therapeutic strategies targeting inflammation and immunity in atherosclerosis: how to proceed? Nat. Rev. Cardiol. 19, 522–542 (2022). https://doi.org/10.1038/s41569-021-00668-4

[4] Merkler, A. E. et al. Risk of ischemic stroke in patients with Coronavirus Disease 2019 (COVID-19) vs patients with influenza. JAMA Neurol. 77, 1366–1372 (2020). https://jamanetwork.com/journals/jamaneurology/fullarticle/2768098

[5] Xie, Y. et al.: Long-term cardiovascular outcomes of COVID-19. Nat. Med. 28, 583–590 (2022). https://doi.org/10.1038/s41591-022-01689-3

[6] Eberhardt, N. et al.: SARS-CoV-2 infection triggers pro-atherogenic inflammatory responses in human coronary vessels. Nat. Cardiovasc. Res. Published September 28, 2023. https://doi.org/10.1038/s44161-023-00336-5

[7] National Institute of Health News Releases: SARS-CoV-2 infects coronary arteries, increases plaque inflammation. September 28, 2023. https://www.nih.gov/news-events/news-releases/sars-cov-2-infects-coronary-arteries-increases-plaque-inflammation?utm_source=dlvr.it&utm_medium=twitter

[8] Szeghy, R. E. et al.: Carotid stiffness, intima–media thickness and aortic augmentation index among adults with SARS-CoV-2. Exp. Physiol. 107, 694-707 (2022). https://doi.org/10.1113/EP089481

[9] Szeghy, R. E. et al.: Six-month longitudinal tracking of arterial stiffness and blood pressure in young adults following SARS-CoV-2 infection. J. Appl. Physiol. 132, 1297–1309 (2022). https://doi.org/10.1152/japplphysiol.00793.2021

      

カテゴリー:感染症とCOVID-19 (2023年)

文科省のガラパゴス的マニュアルが校内感染を促す

カテゴリー:感染症とCOVID-19 (2023年)

はじめに

感染防止対策や公衆衛生の取り組みにおいては、基本的に「何をなすべきか」が一義的に求められ、それをいかに科学的に、合理的に伝えることが重要です。ところが、日本政府や省庁が繰り出す基本的ガイドラインやマニュアルでは、得てしてこの原則から外れることが多く、この点で行政機構は構造的欠陥を抱えていると言えます。

最も顕著な例が、政府がマスク着用を個人の自由としたり、新型コロナウイルス感染症(COVID-195類感染症になったことに伴い、感染対策は個人の主体的な選択を尊重して個人や事業者の判断に委ねる」(厚生労働省ホームページ)としたことです。このメッセージには国民が「何をなすべきか」という情報が一切含まれていません。つまり、全く伝える必要がないメッセージであり、ここだけを捉えれば感染対策や公衆衛生の放棄となってしまうのです。憲法第25条や感染症法の理念と目的(→感染症法を崩壊させた政府ーそして第9波流行から考えても、このメッセージはありえません。

政府のメッセージには後づけで、例えば混雑時の公共交通機関に乗る時とか医療機関に行く時にマスク着用を推奨するというのがありますが、上記のように国民の自由判断と解釈されてしまえば、後は何を言っても効果は落ちてしまいます。肝心なことが、「個人の判断=自由に外してよいというニュアンス」が基本では、意味がなくなってしまうのです。

しかも、前段の「個人の自由」と後段の「マスク着用の推奨」をセットにして、どうにでも解釈できる責任逃れの意図も見え隠れします。この如何様にも解釈できる、あるいは言い訳できる表現というのは、日本の官僚文書によく見られることです。

世界広しと言えども、感染対策を、その目的を抜きにして「個人の判断」としてしまう国はどこにもありません。海外ではマスク着用の義務化を解除した後は当然着用は「個人の判断」になりますが、これは、マスクをどのような場面でつけるかを「自分で判断しろ」という、目的が維持された状態であって、日本のように「個人の自由」、「自由に外してよい」ではないのです。

このような世界標準から外れたガラパゴス的思考は、文部科学省が出した「学校における新型コロナウイルス感染症に関する衛生管理マニュアル(2023.5.8~)[1] にも見られます。この記事では、この文科省マニュアルと海外のガイドラインを比較しながら、とくにマスク着用の考え方について、前者の何が問題かを指摘したいと思います。

1. 文科省ガイドライン

文部科学省は、今年3月17日、「新学期以降の学校におけるマスク着用の考え方の見直し等について」という文書を、都道府県の教育委員会と知事、指定都市・中核都市市長、国立大学法人などに宛てて通知しました [2]。ここに「マスクを外す」ことが基本路線として明確に示されています。この方針に従って、5月8日以降のマニュアルも作成されています。

この文書ではまず、学校教育活動においてはマスクの着用を求めないことを基本とすることが述べられています(図1注1赤線部)。ただし、混雑した電車やバス内、医療機関や高齢者施設の訪問時には着用が推奨されています(図1注2)。また、マスクの着脱を強いることがないようにすること(図1注3)、さらに、たとえ感染流行時においてもマスク着用を強いることがないようにすること」が明確に述べられています(図1注4)。

図1. 文科省によるマスク着用の考え方の見直しについて(文献 [2] からの転載に筆者加筆).

この「マスクの着用を求めないことを基本とする」という方針は、文科省のホームページにある「よくあるご質問(FAQ)」の回答にも見ることができます(図2注1赤線部)。不思議なことに、感染防止対策用の道具としてのマスクという位置づけのはずなのに、「円滑なコミュニケーション」や「充実した学校生活」という感染対策とは関係のない事柄がマスクを不要の理由に挙げられています(図2注2、注4)。もしマスクが不要なら、「感染の恐れが少ないため、流行が落ち着いたため」が理由になるべきであり、円滑なコミュニケーション等は全く視点を外した理由です。

その上で、「マスク以外の感染症対策の実施」を検討するように述べています(図2注5)。一方で、図1注4では、「感染症が流行している場合などには、教職員がマスクを着用する又は児童生徒に着用を促すことも考えられるが..」と述べています。これらを併せて考えると、まったく整合性がなく、支離滅裂なメッセージになっています。言い換えると、彼らの論理で言い訳できる書き方になっているのです。

図2. 文科省ホームページにあるマスク着用に関するQ&A(筆者加筆).

図1、2に示す文科省の基本方針はきわめて奇異です。なぜなら、マスクはエアロゾル感染や飛沫感染の防止策の道具の一つであり、COVID-19やインフルエンザなどに対しては、着用して初めて意味をなすものだからです。したがって、着用して意味をなすものに対して、着用を求めない、あるいは不要という言い方は、着用の意味を考えない、言い換えれば、感染対策として考えないということになります。「何をなすべきか」の基本の視点を欠いているのです。

私たちは、平時ではマスクをすることはありません。パンデミックでも呼吸器系感染症流行でも特別な体調不良でもなければ、マスクをすることはなく、それがデフォルトの状態であるわけです。然るに、冒頭で述べましたが、デフォルト状態から流行時の感染対策や公衆衛生を考える時に「何をなすべきか」ということが求められるのに、そこを「マスクを求めない」としてしまっては、何をか言わんやです。

感染防止対策の矛盾は、いわゆる「黙食」の見直しにも見られます。上述した3月17日付けの文書には、給食や食事の場面においては、従来の「黙食」は必要ないとされています。食事前後の手洗いを徹底するとともに、会食に当たっては、飛沫を飛ばさないように注意すること、適切な換気を確保するとともに、大声での会話は控えること、もし机を向かい合わせにする場合には対面の児童生徒の間に一定の距離(1 m 程度)を確保することが示されています。

お互い会話をすれば、「飛沫を飛ばさないように注意」と言われても飛沫は出ますし、エアロゾル感染するCOVID-19やインフルエンザなどに対しては、室内での 1 m の距離はほとんど意味がありません。もし、感染対策として通知するなら、少なくともHEPAフィルター付き換気装置を動かし、CO2 モニター装置で、たとえば濃度 620 ppm 以下(→室内二酸化炭素濃度によるコロナ空気感染確率の推定)になるように制御し、食後あるいは帰宅時は「鼻うがい」をするなど、具体的な対策を求めるべきでしょう。

簡単に言えば、厚労省文科省のメッセージはリスクコミュニケーションとして「何をなすべきか」を伝えるだけよかったということです。すなわち、マスク着用で言えば、法的義務化はないが、混雑時の公共交通機関に乗る時とか医療機関に行く時などにマスク着用を推奨する、とだけ述べるべきでした。ただ、理由は不明ですが、どうしても「マスク外しをしたかった」(政府としてコロナ終息というイメージを作りたい意向?)ということなのでしょう。

文科省のCOVID-対策マニュアル [1] を見ると、「マスク不要」方針のつじつまを合わせるために、わざわざ「平時」と「感染流行時」とに分けたあり得ない記述になっています(図3)。あり得ないという理由の一つは、平時と感染流行時の定義が曖昧で、誰がどのようにそれを判断するのかが明示されておらず(後述)、これ自体が機能しないことです。もう一つの理由は、どういう状況にあろうと感染症自体は一つであり、かつ日本はずうっと増減を繰り返す流行下にあり、COVID-19やインフルエンザ感染防止に向けて「何をなすべきか」は同じだということです。感染症対策と言った時点で、自動的に求められるのはデフォルトからの対応策であって、そもそも平時とか有事とか流行時とか関係ないのです。

図3. 学校における新型コロナウイルス感染症に関する衛生管理マニュアル(文科省)[2] の目次の一部

では実際に、「平時」のセクションの冒頭に何と書かれているか、以下に引用します。

5類感染症への移行後においても、感染拡大を防止するため、学校教育活動に支障を生じさせることなく、両立が可能な対策については、継続して実施することが有効となります。

「5類感染症への移行後においても」とありますが、5類になったから平時とでも言うのでしょうか。実際は5類移行時の5月の時点では落ちきれずにずうっと流行っています。一体何が平時なのか、この文書ではまったく分かりません。

一方、感染流行時のセクションの冒頭には何と書かれているでしょうか(以下引用)。「感染状況が落ち着いている平時には、それ以外に特段の感染症対策を講じる必要はありません」と書いてありますが、平時と感染流行時の判断は、やはり誰がどのようにするのかが明示されていません。

第2章で述べたように、学校教育活動の実施に当たっては、健康観察や換気の確保、手洗い等の手指衛生の指導等が重要となりますが、感染状況が落ち着いている平時には、それ以外に特段の感染症対策を講じる必要はありません。一方で、地域や学校において感染が流行している場合などには、以下を参考に、一時的に活動場面に応じた対策を講じることが考えられます。

2. 米ロスアンゼルス郡のガイドライン

次に比較として、海外の教育現場におけるCOVID-19感染防止取り組みの例を紹介します。この例として、米国カリフォルニア州ロサンゼルス(LA)郡のガイドライン教育現場おけるCOVID-19予防と対応ガイドライン ”COVID-19 Prevention and Response  Guidelines for Education Settings”)を取り上げます。このガイドラインは、米国における代表的取り組みとしてこのブログでも取り上げてきましたが、今月20日、LA郡公衆衛生局(LACDPH)はこのガイドラインを改定しました。

ガイドラインは、幼稚園から小-高(いわゆる TK-12 schools)、高等教育機関までを対象とするものであり、教育現場がCOVID-19の蔓延を予防し、減少させるために取るべき戦略と具体的な行動を概説することで、安全な対面学習(safe, in person learning)を支援することを目的としています。改定に伴い、以前の LACDPH 設定別予防ガイドラインおよび暴露管理計画文書は統合され、置き換えられていますが、基本的な取り組みは踏襲されています。

このガイドラインにはCOVID-19感染対策として、基本的に以下の5項目が、簡潔かつ明確に述べられており、教職員、保護者、および生徒は「何をすべきか」がよく理解できるようになっています。

●ワクチン接種(vaccination)

●換気(ventilation)

●検査(Test for COVID-19)

●マスクと個人防護具(masks and personal protective equippment [PPE])

●清掃・消毒・手指衛生(cleaning, disinfecting, and hand hygiene)

文科省のマニュアルと最も異なることは、当たり前ですが感染対策に特化していることであり、かつワクチン、検査、マスクについて、それらの必要性について具体的に述べられていることです。ワクチンと検査については文科省マニュアルにはありません。

そして、これも当然ですが、「個人の自由」とか「何々を求めない」とかいう意味のない記述は一切出てきませんし、「学校生活の充実」とかいう感染対策とは直接関係のないフレーズも出てくるはずもありません。あるのは「安全な対面授業」です。

2.1 マスク着用

ここで、文科省マニュアルと比較しやすいように、特にマスク着用についてどのような記述になっているかを具体的に述べます。図3は、LACDPHガイドラインのマスク着用と個人防護具のセクションの一部のスクリーンショットです。

図4. LACDPHガイドラインのマスク着用について(文献 [3] より転載).

このガイドラインでは、マスクはCOVID-19の拡散防止に有効という観点から、マスク着用を強く推奨するという方針が貫かれています。マスク着用の対象となるのは、基本的に感染の疑いのある人、そして濃厚接触の疑いのある人ですが、その他のマスク着用が必要な場合やユニバーサルマスクについても記述があります。

まず、COVID-19への曝露が判明している、または感染者と接触したと疑われる人は、最後の曝露から10日間はマスクを着用すること、という指示があります。また、COVIDに感染していることがわかった場合は、5日間の自主隔離の際はもちろんのこと、6日目から10日目の間に外出する際にもマスク着用の必要がある、とされています。

ガイドラインはマスクのつけ方や種類にも触れています。どのマスクでもある程度の保護効果はあるけれども、マスクがうまく機能するためには、フィット感とろ過性能の両方が必要であると強調されています。そして、フィット感の良いレスピレーター(N95、KN95、KF94など)が最も高い保護効果を発揮すると述べられています。

雇用関係についても具体的な指示があります。雇用主は、屋内で作業し、他人と接触したり、他人と乗り物に乗ったりする従業員(教員や職員)に対し、フィット感のある医療用マスクとレスピレーター(適切な装着方法の説明付き)を無償で提供することが義務付けられています。また、従業員(教員や職員)はマスクや呼吸器の無償提供を要求することが、権利として認められています。

そして、雇用主は、Cal/OSHA (Division of Occupational Safety and Health of California) のマスク着用規則を遵守しなければなりません。この規則は、症例が 10 日目より前に職場復帰する基準を満たす場合や、集団発生時など、特定の状況において労働者をより保護する上で重要であり、マスクを着用することで安全上の問題が生じない限り、活動に参加するために「マスクの着用を妨げるべきではない」と述べられています。文科省が「マスク外しを妨げるべきでない」とする方針と真逆です。

養護教諭室では、直接患者のケアを行うため、マスクの着用が強く推奨されています。生徒が症状を訴えて保健室を訪れた場合、生徒にはマスクが渡され、保健室では適切なPPEが着用されるべきであるとされています。 学校の保健室は、利用する生徒への配布のために、十分な数のマスクを用意しておく必要があります。

屋内の公共の場においてマスク着用が必要とされる場合があります。これには、すべての学校の屋内スペースにおけるマスク着用義務も含まれます。 屋内の公共の場においてユニバーサルマスク着用が必要とされる場合、マスクに耐えられない生徒や、マスクの使用が安全、学習、または既存の障害に影響する生徒のためには、便宜を図ることが述べられています。特に、窒息の危険性があるため、2歳未満の児童は決してマスクを着用しないこととされています。

2-2. 検査について

LACDPHガイドラインには、文科省マニュアルに全く記載がない検査についても具体的指示があります。幼稚園児または1年生から12年生までの生徒を対象とする学区、郡教育局、チャータースクールなどの各地方教育機関は、COVID-19検査計画を策定するか、LACDPHの学校検査枠組みを採用し、その計画をウェブサイトに掲載することが義務付けられています。

具体的な検査の対象として、症状がある場合、暴露されたことがある場合、または最近(旅行中など)マスクをせずに人混みや換気の悪い場所にいた場合は、職員や生徒にCOVID-19の検査をするよう促しています。休暇明けに学校に戻る前に、生徒や職員に検査を受けさせることが有効であることも、 アウトブレイクやLA郡のCOVID-19入院レベルに応じて、追加の検査を推奨する場合もあることも述べられています。

COVID-19検査の種類についても記載があります。 迅速抗原検査PCR検査はどちらも推奨検査に使用して差し支えないとしています。抗原検査は、PCR検査に比べて性能が悪く、偽陰性となる可能性や、このためにFDA抗原検査の繰り返し検査を推奨していることにも触れられています。さらに、Cal/OSHAは、有給の時間帯に、職場で暴露された濃厚接触者全員に対して守秘義務を保証する方法で、無料の検査を提供しなければならないとしています。

幼稚園、TK-12 学校、青少年キャンプ、放課後プログラムについては、LACDPH を通じて無料の抗原検査を受けることができます。 また、ホームレス状態にある生徒やその危険性のある生徒など、弱い立場の生徒にサービスを提供しているIHEも無料で検査を受けることができます。学校関係者全員が検査に簡単にアクセスできるよう、各施設では生徒、職員、家族に無料の抗原検査を配布するように促しています。

2-3 濃厚接触の扱い

5類感染症への分類によって濃厚接触者の概念が消えてしまったのが日本であり、無論、学校にも濃厚接触という考え方は、いま存在しません。一方、LACDPHガイドラインには依然として濃厚接触者の行動指針があります。

濃厚接触した生徒、学生は、最後の接触から3–5日後の間に検査すべきとされています。検査陽性でない限り、症状がない限り、自宅待機の必要はありませんが、上記したように、10日目までは屋内ではフィットしたマスクを着用すること、症状について経過観察することが求められています。マスクに耐えられない生徒は、曝露直後に検査し、最後の曝露から3~5日目の間に再度検査する必要があるとされています。教職員についても基本的に同様です。

おわりに

以上のように、文科省のマニュアルとLACDPHガイドラインを比べてみると、COVID-19感染対策において全く異なることがわかります。LACDPHガイドラインにおいては、教育現場の安全な対面学習を支援することを目的として、COVID-19まん延の予防と減少のために取るべき戦略と具体的な行動(何をなすべきか)が、マスク着用を含めて簡潔かつ丁寧に示されています。その他の海外先進諸国の教育機関感染症対策ガイドラインも、基本的にこれと同様です。

一方で文科省マニュアルはどうでしょうか。「学びの継続に取り組む」、「学びを保障していく」、「安心して充実した学校生活を送る」、というフレーズは並びますが、それらを達成するための肝心な「安全な対面授業」という言葉は出てきません。そして、マスク着用を求めないことが基本とか、平時と流行時の対応とか、摩訶不思議な説明が並んでいます。まさに日本独自のガラパゴス的マニュアルになっていると言えましょう。

もとより感染症の分類を定めた感染症は、感染症のまん延防止、公衆衛生の向上と増進を目的として掲げています。学校における児童生徒は発育・発達期にあり、公衆衛生に収まりきれない独特の側面もありますが、個々の児童生徒の健康を守り、そのために感染症のまん延を防止することは学校関係者の責務であると言えます。その意味で、「学校生活の充実」とか言いながらマスク着用も含めた対策を緩め、その結果、COVID-19やインフルエンザもまん延するすることとなり、健康被害、学級閉鎖、学校閉鎖が続出する状況は本末転倒の姿と言えましょう。「学校生活の充実」を掲げながら、その実、それを阻害しているのです。

自治体のマニュアルには、インフルエンザ等に対する個人対策として、マスク着用、手洗い、咳エチケット、うがい、湿度と換気などが、いずれにも明示されており、日本学校保健会の「学校において予防すべき感染症の解説」にもインフルエンザの予防(飛沫感染対策)としてマスク着用と手洗いが明示されています。

然るに、COVID-19になった途端、かたくなに「マスクを求めない」とする文科省の姿勢は一体何なのでしょうか。「マスク着用推奨される場面」もちゃんと指示してあると言い訳するのでしょうか。少なくとも、学校内でマスク着用を推奨する場面はマニュアルにはないように思います。

この冬、COVID-19とインフルエンザの同時大流行が起こることでしょう。文科省のあり得ないマニュアルの下で、またまた休校、学級閉鎖、学年閉鎖が続出し、生徒の健康被害が拡大し、ことごとく学習機会が奪われることになることは目に見えています。

引用文献

[1] 文部科学省: 学校における新型コロナウイルス感染症に関する衛生管理マニュアル(2023.5.8~). https://www.mext.go.jp/content/20230427-mxt_kouhou01-000004520_1.pdf

[2] 文部科学省初等中等教育局・藤原章夫: 新学期以降の学校におけるマスク着用の考え方の見直し等について(通知). 2023.03.17. https://www.mext.go.jp/content/20230317-mxt_kouhou01-000004520_3.pdf

[3] Los Angeles County Department of Public Health (LACDPH): COVID-19 Prevention and Response/Guidelines for Education Settings. Last updated September 20, 2023. http://ph.lacounty.gov/acd/ncorona2019/docs/covidguidanceeducation.pdf

引用したブログ記事

2023年9月11日  感染症法を崩壊させた政府ーそして第9波流行

2023年6月12日  室内二酸化炭素濃度によるコロナ空気感染確率の推定

      

カテゴリー:感染症とCOVID-19 (2023年)

季節外れのインフルエンザ流行の謎

カテゴリー:感染症とCOVID-19 (2023年)

はじめに

この夏、COVID-19の第9波流行が拡大しました。9月に入り、患者数のピークは過ぎたようにも思えますが、まだ高いレベルにあり、油断できません。加えて、季節外れのインフルエンザも拡大し、全国的に患者数が増えています(図1)。まさしくCOVID-19とのツインデミックの様相を呈しています。

図1. 全国、北海道・東北、関東、および九州・沖縄におけるCOVID-19および季節性インフルエンザの患者数の推移(COVID-19とインフルで単位が異なることに注意、モデルナジャパンサイトからの転載).

季節性インフルエンザは冬に流行するのが常ですが(だから季節性とよばれる)、この夏からの流行は明らかに異常です。一体この原因は何なのでしょうか。専門家が異口同音に挙げているのが「コロナ禍における免疫低下」という俗説です。

1. 免疫低下が要因?

ここで、メディアが取り上げたインフルエンザ拡大の要因に関する専門家の発言、見解のいくつかを取り上げてみましょう。共通するのは、「コロナ禍におけるマスク着用などの感染対策の結果インフルエンザ感染が抑えられ、免疫が低下した」というものです。いわゆる免役負債(immune debt)に基づく発言です。

COVID-19の5類移行が行なわれた5月、すぐに季節外れの集団感染相次ぐという見出しでインフルエンザの集団発生を産經新聞が伝えました [1]。 その記事にある菅谷憲夫氏の発言を引用します。要因として集団免疫の低下と感染対策の緩和を挙げています。

慶応大の菅谷憲夫客員教授感染症学)によると、新型コロナ流行後、マスクの装着や会食の減少でインフルエンザの感染者が激減した。今年の長引く流行は、集団免疫の低下と新型コロナの5類移行に伴う対策緩和が原因といい「夏でも海外からウイルスが持ち込まれれば、集団感染が起きる可能性がある」と指摘。特に冬は要注意だとした。

この頃は、冬に流行した後、収まるはずのインフルエンザが落ちきれずに下げ止まりになっていました。テレビでもお馴染みの森内浩幸氏は、「集団免疫低下」に触れながら次のように述べています [2]

長崎大学大学院森内浩幸教授「(長引くコロナ生活で社会全体の)インフルエンザに対する集団免疫が弱くなってきたので、新学期や新学年が始まった後の学校生活で大きなクラスターが起こっているというのが今の東北地方。意識して換気に努めるということをしないと季節外れのインフルエンザの流行であれ、じわじわ戻ってきている新型コロナであれ拡大する恐れがある」

さらに7月になってもインフルエンザは収まらず、ここでも免疫低下が影響したという見解が述べられました [3]

流行が長引いていることについて、日本感染症学会インフルエンザ委員長の石田直・倉敷中央病院副院長は「2シーズン流行がなかったことで免疫が落ちているため、1人が発症すると周りに広がりやすい状況になっている。手洗いやうがいなど基本的な対策を心がけてほしい」と呼びかけている。

9月に入ってから、インフルエンザは急拡大しています。忽那賢志氏は、インフル流行のいくつかの要因を挙げながら、やはり免疫低下にも触れています [4]

この流行の原因について、感染制御学が専門の大阪大学・忽那賢志教授に聞きました。流行の主な要因は3つ考えられるということです。

(1)コロナ禍で、インフルエンザの免疫を持つ人が減った
(2)人の移動が増え、感染対策が緩和された。
(3)海外からの入国者が増え、海外由来のウイルスが持ち込まれるようになった。

忽那教授は、この他にもあると話します。

忽那教授:「詳しい理由は分かっていないが、熱帯や亜熱帯の地域では、インフルエンザが通年で流行している。近年、日本国内で猛暑が続いていることを考えれば、今後も夏に流行する状況は続くのではないか」

菅谷憲夫氏も、下記のように免疫低下に触れました [5].

感染症に詳しい菅谷憲夫・慶応大客員教授は「コロナの流行が始まって2シーズンはインフルエンザが流行せず、人々の免疫が低下したため、広がりやすくなっている。夏場の発熱患者の検査が増えた影響もあるだろう」と話す。

浜田篤郎氏も「流行がなかっため、免疫が大きく低下した」と述べています [6]

東京医科大の浜田篤郎特任教授(渡航医学)は「流行が長期間なく、人々の免疫が大きく低下した。マスク着用といった感染対策が緩和され、水際対策の撤廃で国際的な人の往来が増加したことも大きな要因」と指摘。日本では毎シーズン推計1000万~1500万人程度の患者が出るが、海外の状況から考えると今シーズンはこれを上回る可能性もあるという。

NHKは、小池都知事がインフル大流行の可能性に鑑みて対策をと呼びかけだことを報じましたが、この記事のなかで、ちょっとニュアンスは異なりますが、渡邉雅貴氏が免疫力が落ちていると述べています [7]

渡邉雅貴院長は、「この夏の猛暑による疲れで、免疫力が落ち感染症にかかりやすくなっている可能性がある」としています。

中原英臣氏もやはりコロナ禍でインフエンザ感染がなかったことによる免疫低下も要因として挙げています [8] 。

西武学園医学技術専門学校東京校の中原英臣校長(感染症学)は、流行の理由を「過去3年は新型コロナ対策でインフルエンザ感染者が減り、多くの人の免疫が低下したこと」と指摘。「今年は学校行事やイベントで感染対策の制限が減ったこと」などもあるという。

このように、専門家による免疫低下の大合唱のなかで、メディア自身も専門家の発言を引用することなく、「免疫低下」を要因として挙げるようになりました。一例としてTBSの報道を以下に引用します [9]

新型コロナが流行っていた数年は、インフルエンザの患者が少なく、多くの人の免疫が低下していることが一因とみられます。

そもそも免疫負債論が好きなのは、日本の医学界の伝統のようです。 以下のように、季節外れのインフルエンザが流行る前から、コロナ禍での免疫低下に言及があります [10]

時田章史院長時田氏は「コロナ禍における厳密な感染対策はさまざまなウイルスを遠ざける一方、子供たちが本来の年齢に免疫を獲得できない状況をもたらした」と指摘。コロナの流行抑制で衛生対策の緩みも生じる中、「免疫の貯金が十分でない子供たちの間で、想定外の感染症が広がりかねない状況が生まれている」とみる。

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小児科医で帝京大大学院の高橋謙造教授(公衆衛生学)は「子供たちは適切な時期に感染症にかかることで強い体を作っていく。手足口病などのウイルス性疾患に乳幼児期に繰り返し感染する一方で、ある程度の高熱にも耐えられる体ができる。

2. 世界の中で異常な日本のインフルエンザ流行

以上のように、ここに来てのインフルエンザ患者の急増について、専門家は集団免疫の低下を主要因として挙げているわけですが、果たしてそうでしょうか。少なくとも現時点においては、免役負債について科学的根拠はなく、単なる「物語」というのが世界の大方の専門家の見解です [11](→免疫負債?)。

私は、一様に免疫負債に基づいてインフルエンザ増加を説明する専門家に対して少々疑問があり、X(旧ツイッター)上でも疑問点をコメントしてきました。それは、日本のこの夏のインフルエンザ患者の急増を説明できないからです。

それは世界の中での日本を見れば分かることです。図2に、G7諸国における季節性インフルエンザの流行の推移を、検査陽性の割合で示します。インフル患者が多ければそれだけ陽性者の割合が多いということになります。

図から分かるように、各国とも秋・冬に患者が増え、夏になると収束するというパターンを繰り返していますが、2021年と2022年の冬には流行がなく、その年の秋から冬(2022-2023年)にかけて、流行が戻っています。ところが、特徴的なこととして日本だけが2023年の冬から落ちきれず、夏に再上昇していることが分かります。

図2. G7諸国におけるインフルエンザ検査の陽性割合の推移(Our World in Data より転載).

日本の専門家がこぞって言うように、もし2年間のインフル流行がなくて集団免疫が低下したとするなら、G7諸国すべてにおいて日本と同様なパターンになるはずです。しかし、海外では過去と同様な2023年冬の流行を経験し、その後収束しています。そして、海外で注目すべきは、2022年の3–6月にやや小さなインフルエンザの流行ピークが見られたことです。すなわち、日本より一年以上早かった感染対策・人流緩和の後に季節外れの流行が起こり、2023年冬の流行には季節性の流行に戻り、夏には例年通りちゃんと収まっているわけです。

日本でもCOVID-19の感染対策の緩和が影響してこの冬にインフルエンザが流行ったと思われるわけですが、夏に再上昇していることは、海外にはない要因を考える必要があり、そこを単純に「集団免疫の低下」とするには無理がありそうです。一番考えやすいのは、G7諸国から1年遅れの全面的感染対策緩和(水際対策の緩和や5類化前後からのマスク自由化)の影響です。

実は、日本のこの夏(8月1日時点)のインフルエンザ流行は、全世界でみると非常に希有な現象であることがわかります。図3に、全世界の各国におけるインフルエンザ検査陽性率の割合を示します。日本が異常に陽性割合が高く(真っ赤)、日本以外で赤く見えているのは、データがない国を除けば、アフリカの一部の国だけです。

図3. 世界各国におけるインフルエンザ検査の陽性割合(2023年8月1日の時点、Our World in Data より転載).

おわりに

上述したように、この夏の季節外れのインフルエンザの流行は、どうやら日本特有の現象と思われます。COVID-19パンデミックの当初の2年間、インフルエンザ流行がなかったこと、そして感染対策の緩和ととともに例年通りの季節性流行に戻っていることは世界共通の現象であり、その中で日本だけが落ちきれずに異常拡大しているわけです。これを、流行がなかった2年の間に集団免疫が低下したから今流行しているとするには、ちょっと無理があると思います。今冬である南半球からの来日客の増加のせいにするのも無理でしょう。北半球の先進諸国の中では、日本しか流行っていないのですから。

日本独自に見られ、かつ要因として考えられる急激な変化と言えば、繰り返しますが、COVID-19の5類移行の前後から、マスク着用が任意になり、感染対策が緩和されたことです。特に、学校では、文部科学省の旗振りで、むしろ「着用しない」方針が貫かれています。学校ではノーマスクの状態で様々な集団イベントが行なわれており、これが子どもの感染(コロナとインフルのツインデミック)を促進していることは疑いの余地がないことだと思われます。結果として、いま学級閉鎖、学校閉鎖続出の状態にあります。

ただそれにしも、この夏のインフルエンザの異常感染増加は謎の部分があります。もし免疫に関係するとしたら、それは過去2年間に感染しなかったからではなく、その他の要因(COVID感染や生物製剤導入など)での変化を考えるべきではないかと思います。もし海外と同様に、感染対策緩和の影響なら、来年には急激な季節外れの流行はないでしょう。

引用記事

[1] The Sankei News: 季節外れの集団感染相次ぐ インフル 免疫低下が原因. 2023.05.25. https://www.sankei.com/article/20230525-6OG3U4JZZ5LD3IECW56WKRV3AY/

[2] knb5: 季節外れのインフルエンザ患者 子ども中心に増加 コロナ禍で集団免疫が低下が影響か 長崎大学大学院 森内浩幸教授. 2023.06.06. https://www.khb-tv.co.jp/news/14926314

[3] 読売新聞オンライン: インフルエンザ、史上初めて7月もなお流行…コロナ禍で免疫低下が影響か. 2023.07.07. https://www.yomiuri.co.jp/medical/20230707-OYT1T50202/

[4] テレ朝news:【解説】原因は?インフル学級閉鎖“2週間で10倍”コロナと同時流行. 2023.09.14. https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000315957.html

[5] 読売新聞オンライン: インフル流行、昨年末から途切れず新シーズン突入…専門家「免疫低下で広がりやすく」 2023.09.15. https://www.yomiuri.co.jp/medical/20230915-OYT1T50285/

[6] nippon.com: インフル、異例の長期流行=収束せず新シーズンに―免疫低下・往来増が要因. 2023.09.16. https://www.nippon.com/ja/news/yjj2023091600312/

[7] NHK NEWS WEB:「インフル 4週間以内に大流行の可能性 対策を」小池都知事.  2023.09.22. https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230922/k10014203791000.html

[8] Sponichi Annex: インフル猛威 感染者急増、東京最速21日に流行「注意報」 コロナ対策で感染者減少→免疫低下が影響か. Yahoo Japanニュース 2023.09.23. https://news.yahoo.co.jp/articles/c4da2e46205892eda3b99371a01788c770fb294b

[9] TBS News Dig: 季節性インフルエンザ 全国で前週から1.57倍増加 9月に“異例の流行” 厚生労働省. Yahoo Japan ニュース. 2023.09.22. https://news.yahoo.co.jp/articles/74f2beda6940c4d27ef1e3dca4dba0c72b044c43

[10] 三宅陽子: 子供の「免疫負債」波紋 感染症、適切な年齢でかからず コロナ対策の産物. 産經新聞. 2021.12.30. https://www.sankei.com/article/20211230-ZHHML7VBWJPLNMOCMUBZRTZQ64/

[11] Cruickshank, S.: Does COVID really damage your immune system and make you more vulnerable to infections? The evidence is lacking. University of Manchester. January 20, 2023. https://www.manchester.ac.uk/discover/news/does-covid-really-damage-your-immune-system-and-make-you-more-vulnerable-to-infections-the-evidence-is-lacking/

引用したブログ記事

2022年11月20日 免疫負債?

      

カテゴリー:感染症とCOVID-19 (2023年)

感染症法を崩壊させた政府ーそして第9波流行

カテゴリー:感染症とCOVID-19 (2023年)

2023.9.12更新

第9波の COVID-19 流行が収まる気配がありません。今は感染者数も死者数も把握されていませんので、受診した患者数の記録で推測するしかありませんが、モデルナのサイトで公表されるデータに基づけば、現在10万人/日を超える患者数で推移していることがわかります(図1)。ちなみに、本来夏には収束するはずの季節性インフルエンザが今年は下がり切らず、そのまま上昇に転じています。

図1. COVID-19患者数と季節性インフルエンザ患者数の推移(モデルナジャパン「新型コロナ・季節性インフルエンザ リアルタイム流行・疫学情報」より転載). COVID-19 とインフルエンザで単位(縦軸)が異なることに注意.

とはいえ、現在はたとえ症状があったとしても自主的な簡易抗原検査で陰性であれば受診しない人が多いですし、受診しても有料の検査を避ける患者もいて、図1のデータは実際の発症感染者数を大きく過小評価していることは明らかです。これは、各地の下水サーベーランスのデータで判断することができます。実際は、COVID パンデミックが始まって以来最悪の第9波流行と言えるでしょう。これについて先日、私は、以下のように"X"上でコメントしました。

第9波流行の結果、救急医療はひっ迫し、学校現場では学級閉鎖学年閉鎖が相次いでいます。いま EG.5 が流行の主要ウイルス変異体ですが、この先 BA.2.86 の台頭が予測されています。この状態のまま冬の流行に向かうのでしょうか。多分、EG.5 から BA.2.86 の系統に置き換わるに伴って、冬の流行が起きるでしょう。

第9波流行に至った原因は、よく言われていますが(本ブログでも何度も指摘していますが)、政府の5類化に伴う感染対策の緩和、公衆衛生上の取り組みの放棄、それに疫学情報の遮断です。政府は、こともあろうに5類移行後は感染対策を「個人に委ねる」としました(図2)。これが公衆衛生の放棄です。

図2. 厚生労働省および内閣官房のCOVID-19への対策メッセージ

なぜ、公衆衛生の放棄といえるか、それは感染症法(感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律の目的を見ればよくわかります。感染症法では、第一章総則、第一条で目的を以下のように規定しています。

第一条 この法律は、感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関し必要な措置を定めることにより、感染症の発生を予防し、及びそのまん延の防止を図り、もって公衆衛生の向上及び増進を図ることを目的とする。

感染症の発生予防まん延防止公衆衛生の向上と増進が明確に述べられています。つまり、法律上は、COVID の感染拡大を抑え、公衆衛生の維持に努めることが求められているということです。したがって、法律に基づき「個人の選択を尊重」とか「自主的な取り組み」などと表現することはありえないのです。2類相当から5類に移行したということは、政府・行政の責任による措置(緊急事態宣言や行動制限など)ができなくなるということだけで、その勢いで公衆衛生に関して「個人に委ねる」としてはいけないのです。

上位には日本国憲法25条の生存権の規定があり、国は公衆衛生の向上および増進の義務を有します。

第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
 国は、すべての生活部面について、社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

然るに、一旦個人の自由とか個人に委ねると言ってしまえば、後段でいくらマスク着用推奨などを言ってもムダです。人々を勘違いさせるには十分なメッセージとなります。

このように、感染症のまん延防止と公衆衛生の維持・向上は、感染症の分類変更とは関係なく、その上位の総則の第一条や日本国憲法でしっかりと書かれているわけです。では公衆衛生とは何を意味するのでしょうか。いくつかの定義がありますが、最もよく引用されているものに、Gatseva and Argirova (2011) の論説 [1] があります。この論文のアブストラクトを翻訳して引用すると、以下のようになります。

公衆衛生とは、「社会、組織、公私、地域社会、個人の組織的な努力と情報に基づいた選択を通じて、疾病を予防し、生命を延ばし、健康を促す科学と技術(Winslow 1920)」である。世界保健機関(WHO)は、健康とは「身体的、精神的、社会的に完全に良好な状態であり、単に病気や虚弱がないことではない」と定義している(WHO 1946)。公衆衛生は、発展途上国でも先進国でも、地域の保健制度や国際的な非政府組織を通じて、疾病予防の取り組みに重要な役割を果たしている。今日、ほとんどの政府は、疾病、障害、老化の影響の発生率を減少させる上での公衆衛生プログラムの重要性を認識しているが、公衆衛生は一般に、医学に比べて政府からの資金援助が著しく少ない。

すなわち、要約すれば、公助、共助、自助のすべての組織的努力を通じて、疾病を予防し、集団レベルでの健康を科学的に保つということです。日本語では public heath を「公衆健康」ではなく「公衆衛生」と対訳しているため、「衛生レベルを保つこと」と誤解している人も多いですが、まさに集団レベルでの健康のことであり、それを組織的に維持することであり、そしてそれらに関する科学と技術だということです。

組織的に公衆の健康を科学的に維持するという目的からは、優先的に「個人の自由」とした政府のメッセージはあり得ないことですが、5類移行にかこつけて政府はこれをやってしまいました。政府は法律を曲解したのでしょうか、意図的に行なったのでしょうか。いずれにしても、これは大きな不作為と暴挙であって、感染症法の崩壊とともに憲法違反とも言えるでしょう。

不作為と言えば、5類移行に伴って、定点医療機関での患者数把握が行なわれていますが、これも流行の基準が作られないままです。基準を作らないなら一体何のために定点把握はあるのでしょうか。もともと定点把握は、COVID 流行状況を先取る指標としては不適当なのですが、基準がないとすればそれこそ全く意味をなさなくなります(小児科を中心とする定点の平均患者数をただ見ているだけ)。

国のこの不作為は、都道府県の対応にも多大な影響を及ぼしており、他の5類感染症については流行状況が公表されるなかで、COVID-19 は流行状況さえ知らされません。つまり、5類感染症の扱いでさえないのです。もちろん第9波という言葉もこれまで使われていません。地域行政も教育委員会も右にならえで、流行の定義さえないというへ理屈まで繰り出す始末で呆れるばかりです。感染症法が完全に無力化しているのです。

私は、このおかしな対応の代表格とも言える千葉県にメールで尋ねてみました。問いの主旨は「他の感染症では流行状況を明示しているのに、コロナについてはなぜこれをやらないのか、データが乏しいというのは理由にならない」というものです。然るに千葉県健康福祉部からは以下の回答が届きました(回答文書を直接引用)。

国(厚生労働省)は、新型コロナウイルス感染症の流行に関する基準(目安)を示すためには、長期間のデータの蓄積や一定の流行パターン(季節性など)が必要となるため、現時点において、明確な流行の基準を示すことは困難としており、当県もその考え方に準じております。

当県において、流行状況をお示ししているインフルエンザ、小児科定点把握疾患(RSウイルス感染症等)、眼科定点把握疾患(急性出血性結膜炎等)は、いずれも過去の多くのデータと流行パターンの蓄積があるため、統計学的手法を用いて過去の発生状況と比較して流行状況を明示することが可能ですが、新型コロナウイルス感染症については、現時点ではデータ量が乏しいため、科学的に妥当性のある流行の基準を設定することは困難です。

また、新型コロナウイルス感染症については、5類感染症に位置付けが変更された後においても、感染者数の増減を繰り返していくものと見込まれ、特に重症化リスクのある方を感染から守る観点からの対策は続きますが、位置付け変更前の「特別な病気に対する特別な対応」から「一般的な病気に対する普遍的な対応」へとシフトしてきております。

感染症法に照らし合わせて、ここにも行政のヤル気のなさと不作為が見られるのです。2類→5類という法令上の扱いが変わっただけで、病気やウイルスは今までと変わりなく、もちろんコロナは明けてもいません。しかし、「コロナは普通の病気」だから、流行もない、あったとしても大したことはないというスタンスなのでしょう。ちなみに千葉県は、学校における脱マスク方針を率先して行なっている県の一つでもあります。

人々は、政府による「個人の選択を尊重」というメッセージを「自由になった」「コロナは終わった」と勘違いし、疫学情報の不足もあって、ノーマスクも含めて、感染対策を徹底的に緩めてしまいました。政府が感染症法を意味のないものにした結果、国民にもマスコミにもそれが伝播したというわけです。

その結果として、いま、過去最悪の第9波流行が襲来しているのに、過去最低のマスク着用率になっているという矛盾が見られます。感染対策の緩みは、季節性インフルエンザの「季節外れ」の増加ももたらしており、ツインデミックの様相を呈してきました。

政府や行政の「コロナは明けた」と思い込ませる情報の歪曲と疫学情報の無力化が国民に伝播し、それがウイルスの伝播を許すという事態になっているわけですが、本来はマスコミがこれらの情報をチェックする役割を担っているはずです。しかし、日本のメディアの情報リテラシーの低下は甚だしく、政府の情報をそのまま垂れ流し、感染症法の崩壊に手を貸してきました。

岸田首相は、COVID 流行については「われ関知せず」、「意に介さず」、「終わったもの」という姿勢を貫いていて、外遊や政権人事に勤しんでいます。COVID 流行にも、拡大する学級閉鎖にも、増える長期障害の人たちにも全く関心がないということなのでしょう。

2023.9.12 更新

COVID-19の国内の感染状況について、加藤勝信厚生労働相は、9月11日、大阪市内での講演で「『第9波』と言われているものが今回来ている」と述べ、第9波流行を認めました [2]

引用文献・記事

[1] Gatseva, P. D. and Argirova, M.: Public health: the science of promoting health. J. Public Health 19, 205–206 (2011). https://doi.org/10.1007/s10389-011-0412-8

[2] 藤谷和広: コロナの「第9波」来ている 加藤厚労相、講演で発言 注意よびかけ. 朝日新聞デジタル 2023.9.11. https://www.asahi.com/articles/ASR9C633SR9CUTFL010.html?iref=pc_ss_date_article

         

カテゴリー:感染症とCOVID-19 (2023年)

 

海外メディアが伝える処理水放出に関する科学者の見解

カテゴリー: その他の環境問題

はじめに

日本は福島原発事故跡から発生する放射能汚染水の処理水(ALPS処理水)の海洋放出を開始しましたが、この前後において、海外のメディアが盛んに関連記事を配信しています。それらの中には海洋放出に対する海外の科学者の批判や懸念も含まれていますが、日本のマスコミはほとんど取り上げません。中国の禁輸措置も含めた政治的な反発や嫌がらせが、テレビなどで盛んに報道されているのとは対照的です。

このブログ記事では、ナショナルジオグラフィックの記事 [1] BBCニュースの報道 [2] を取り上げながら、主として海外の科学者の反応を紹介したいと思います。ちなみに、海外メディアで、日本政府が好んで称するALPS処理水をそのまま呼んでいるところはどこにもなく、処理された核廃水(treated nuclear wastewater)、福島廃水(Fukushima waste water)、放射能処理水(treated radioactive water)などの表現を使っています。

1. ナショナルジオグラフィックの記事 [1]

ナショナルジオグラフィックの記事は、8月24日配信になっていますが、内容を見るとほとんどが海洋放出が始まる前に書かれたもののようです。冒頭で「これは市街地から排水溝に流れ込むような廃水ではない。 10年以上前の地震で被災した福島第一原子力発電所の損傷した原子炉を冷却するために使用された核廃水の処理水である」と断言しながら、日本と海外の反応を対比させています。すなわち、「日本政府は、この廃水を安全だと主張しているが、それは、トリチウムと呼ばれる放射性同位元素とおそらく他の放射性物質を含んでいる」、「一方で、近隣諸国や他の専門家らは、何世代にもわたって続く環境の脅威をもたらし、北米の生態系まで影響を及ぼす可能性があると述べている」、「どちらが正しいのだろうか?」と述べています。

これまでの経緯が次のように紹介されています。2011年3月11日、マグニチュード9.1の東日本大震災が発生し、2つの津波原発を襲いました。3基の原子炉がメルトダウンし、運転作業員たちは溶融した燃料を冷却するために海水の注入を開始しました。それから12年以上が経過し、現在もメルトダウンした燃料デブリの冷却が続いているわけですが、このプロセスで毎日130トン以上の汚染水が発生しています。これまで130万トン以上の核汚染水が集められ、処理され、敷地内のタンクファームに保管されてきました。

記事は、「この貯蔵スペースはまもなく底をつき、廃水を太平洋に放出する以外に選択肢はない」という日本政府の見解、およびそれに対する他国の反応を紹介しています。放出計画では、今後30年間かけて段階的に排水することになっていますが、まだ発生し続けている量を考えるともっと時間がかかるという専門家もいること、国連の原子力監視機関である国際原子力機関IAEA)がこの計画の安全性を評価する一方で、日本の近隣諸国からは、下記のように、一方的行為で危険だとの批判も出ていることを紹介しています。

中国の高官は、海洋放出を「全人類にとっての」リスクと呼び、日本が太平洋を「下水道」として利用していると非難しました。18の島国を代表する組織である太平洋諸島フォーラムの代表は、これをパンドラの箱と称しました。これらの島国は、何十年にもわたる核実験によってすでにトラウマを抱えています。放出に先立つ5月15日には、韓国の野党指導者が、日本の指導者たちの「水は飲めるほど安全だ」という主張を嘲笑しながら、「飲めるほど安全なら、飲料水として使うべきだ」と反発しています。

一方で、米国や国連は、日本の海洋放出を支持しています。米国務省の報道官は、日本が提案した放出について米国の立場を尋ねられ、「その決定について透明性があり、世界的に受け入れられている原子力安全基準に沿ったアプローチを採用しているようだ」と声明で述べ、慎重な支持を表明しています。ただ、記事でも述べられているように、同報道官は、放射性核種が太平洋を越えて北米の海岸に拡散する可能性についての具体的な懸念についてはコメントを避けています。そして、カナダとメキシコの外務省の代表は、海洋放出に関するコメントを複数回求めたが応じなかったと記事は書いています。

記事では、いま、米国の科学者たちが、海洋生物や海流が有害な放射性同位元素放射性核種とも呼ばれる)を太平洋全域に運ぶ可能性があると懸念していることを伝えています。たとえば、ハワイ大学ケワロ海洋研究所の所長であり、太平洋諸島フォーラムの放流計画に関する科学アドバイザーを務める海洋生物学者ロバート・リッチモンド(Robert Richmond)氏は、「国境を越え、世代を越えたイベントだ」、「福島沖の海に放出されたものは、一か所に留まることはない」と述べています。

IAEAは、海洋放出の国際水域への影響については、海洋拡散モデルに基づけばその影響はなく、越境影響は無視できるという見解です [3](→放射能汚染処理水放出と今後の影響)。一方、リッチモンド氏は、福島の最初の事故で放出された放射性核種や瓦礫が、約5500マイル離れたカリフォルニア沖で直後に検出されたことを示す研究に言及しています。そして、「計画されている排水に含まれる放射性元素は、再び海を越えて拡散する可能性がある」と述べています。

放射性核種は海流、特に太平洋を横断する黒潮によって運ばれる可能性があり、また、長距離を移動する海洋動物も放射性物質を拡散させる可能性があります。2012年のある研究では、2011年の事故から6ヶ月以内に、福島由来の放射性核種を持った太平洋クロマグロがサンディエゴ沿岸に到達したという「明白な証拠」が示されました。

リッチモンド氏によれば、すべての海洋生物の食物連鎖の起点である植物プランクトンは、福島の冷却水から放射性核種を取り込むことができますが、その運び屋としてはそれほど心配する必要はないということです。問題は、それらの放射性同位体が、消費者である動物に摂取されることです。彼は「様々な無脊椎動物、魚類、海洋哺乳類、そして人間に蓄積される」可能性があると指摘します。さらに、今年初めの研究では、海洋中のマイクロプラスチックが放射性核種輸送の 「トロイの木馬 」になる可能性について言及されています。これは前の拙著ブログでも指摘しています(→放射能汚染処理水放出と今後の影響)。

リッチモンド氏は、さらに、2011年の事故後、科学者たちがカリフォルニア近郊で放射性元素の痕跡を検出できたことが、今後の数十年にわたる廃水放出で予想できることを体現していると言います。彼は、最近、太平洋諸島フォーラムの科学顧問とともに、廃水が環境と人間の健康に及ぼす潜在的影響についてまだ十分に知られていないとし、日本に対して廃水放出を延期するよう求める意見書を発表しました。

記事では、リッチモンド氏ら以外にも、このような懸念を緊急表明している米国の科学者の言動を紹介しています。 昨年12月、米国を拠点とする全米海洋研究所協会(National Association of Marine Laboratories、米国または米国領内の100以上の研究所を会員とする組織)は、廃水放出計画に反対する声明を発表しました [4]

この声明は、「日本の安全性の主張を裏付ける適切で正確な科学的データが不足している」、「希釈が汚染の解決策 "という仮定を懸念している」ということを主張しています。声明によれば、海洋放出は 「地球上で最大の連続した水域」に対する脅威になる可能性があります。この水域は、生物の量的・質的に最大のバイオマスを含み、世界の漁業の70%をカバーしています。

一方で、やや違った見方をする科学者についても記事は紹介しています。海洋放射化学者で太平洋諸島フォーラムのアドバイザーを務めるケン・ビューセラー(Ken Buesseler)氏は、今回の事故による放射性物質の放出は、正しく見る必要があると言います。すなわち、「2011年に福島から太平洋に放出された放射性物質は比較的大規模なものであったが、それでも北米西海岸沖で検出されたレベルは、2011年の最初の数ヶ月に危険なほど高かった日本沖のピークレベルよりも数百万倍も低かった」と彼は述べています。そして、距離と時間が放射能レベルを下げるので、放出によって太平洋が取り返しのつかないほど破壊されるとは思えないし、私たちが死ぬという状況でもないと続けています。

ただ、ビューセラー氏も、「だからといって心配するなということにはならない」と念を押しています。タンクに貯蔵されている廃水には、セシウム137、ストロンチウム90トリチウムなど、さまざまなレベルの放射性同位元素が含まれており、 廃水濾過システムがどれほど除去効果があるのかという点について、疑問を呈しています。

記事は東京電力の見解も紹介しています。東電の広報担当者は、電子メールで、放出が「公衆と環境」に与える影響は最小限であると回答しました。すべての排水は、放出される前に「繰り返し浄化され、サンプリングされ、放射性物質の濃度が規制基準を下回ることを確認するために再検査される」と述べています。広報担当者は、ろ過システムはトリチウムを除去することはできないが、処理された廃水は、海水で希釈され、「日本や世界中の他の原子力発電所で放出される」よりも低いトリチウム濃度になるまで海水で希釈され、放出されると答えています。

東電はトリチウムを除く62種類の放射性同位体を除去するシステム(ALPS)を使用しています。ビューセラー氏は、この濾過システムが「常に有効であるとはまだ証明されていない」と警告しています。セシウムストロンチウム90のような 「非常に懸念される元素 」もあります。ストロンチウムは骨癌や白血病のリスクを高める同位体であるため、「ボーン・シーカー(bone seeker) 」という不吉な呼び名がついています。ビューセラー氏は、東電のデータによれば、処理後の廃水にはまだこれらの放射性同位元素が含まれており、その濃度はタンクによって大きく異なっていたと指摘しています。そして、「放射性同位体はうまく除去されたというのは不当だ」と述べています。

2. BBCの報道 [2]

福島に常設事務所を構えるIAEAは、「独立した現地分析」の結果、放出された水のトリチウム濃度は「運用上の制限値である1リットルあたり1,500ベクレル(Bq L−1をはるかに下回っている」と発表しました。BBC News は、この結果を交えながら専門家の意見を報じています。

専門家からのメッセージは、海洋放出は安全だというものがほとんどですが、すべての科学者が放出がもたらす影響について同意しているわけではありません。トリチウムは世界中の水に含まれており、トリチウムのレベルが低ければ、影響は最小限だと主張する専門家が大部分です。

しかし、トリチウムが海底や海洋生物、そして人間にどのような影響を与えるかについて、より多くの研究が必要だと言う、批判的な意見もあります。専門家によれば、排水は海流、特に太平洋を横断する黒潮によって運ばれる可能性があるといいます。漁業従事者たちは、自分たちの評判が永久に傷つくことを恐れ、自分たちの仕事を心配しているとBBCに語っています。

ポーツマス大学のジェームス・スミス教授(環境・地質科学)は、「理論的には、この水を飲むことができます」と述べています。フランスの放射能測定研究所の物理学者デイヴィッド・ベイリーも同じ見解であり、重要なのは、そこにどれだけのトリチウムがあるかということだと述べています。「この程度のレベルであれば、例えば魚の数が激減しない限り、海洋生物に問題はありません」。

しかし、一部の科学者は、海洋放出による影響を予測することはできないと述べています。ジョージ・ワシントン大学のエネルギー・環境法の専門家、エミリー・ハモンド教授は、「トリチウムのような放射性核種に関わる課題は、科学が完全に答えられない問題を内包していることだ」と言います。

米国海洋研究所協会は、2022年12月、日本のデータには納得できないとの声明を発表したことをBBCも報じています。これは、上記のナショナルジオグラフィックの記事で紹介したとおりです。

また、ナショナルジオグラフィックの記事にも登場したハワイ大学のロバート・リッチモンド氏は BBC に次のように語っています。 「私たちは、日本が水や堆積物、生物に何が入り込んでいるのか検出できないだけでなく、もし検出されたとしても、それを除去する手段がないことを非常に懸念している」。

グリーンピースなどの環境保護団体は、さらに踏み込んで、南カロライナ大学の科学者が2023年4月に発表した論文 [5] を紹介しています。グリーンピース東アジアのシニア原子力スペシャリスト、ショーン・バーニー氏は、トリチウムは摂取された場合、「繁殖力の低下」や「DNAを含む細胞構造の損傷」など、動植物に「直接的な悪影響」を及ぼす可能性があると述べています。

この論文 [5] は前のブログ記事でも引用していますが(→放射能汚染処理水放出と今後の影響)、エルゼビアのプレプリントサーバー"SSRN"に投稿された査読前論文です(下図)。

著者らは、トリチウムに関する70万件以上の文献に目を通し、トリチウムの生物学的影響に関する何らかの側面を扱った約250の研究にたどり着きました。そして、そのレビューから導いた最初の結論は、これほど多くの人が関心を寄せている話題にもかかわらず、驚くほど研究が少ないということでした。

ヒトのがんに対するトリチウムの影響に関する研究は報告されておらず、自然界におけるトリチウムの影響に関する研究もほとんどありませんでした。トリチウムの影響に関する研究の大部分は、実験室のモデル生物を用いて行われており、自然条件への外挿は困難でした。

著者らが導いた第二の結論は、トリチウムは比較的良性の放射線源であるという一般的な考え方に反して、重大な生物学的影響を及ぼす可能性があるということです。すなわち、発表された研究の大部分は、特に内部被ばくに関する被ばくが、DNAへの損傷、生理学特性と発育の障害、生殖能力と寿命の低下などの生物学的影響を及ぼし、がんを含む疾病リスクの上昇につながる可能性があることを示していました。著者は、「トリチウムは非常に過小評価されている環境毒素」であり、もっと精査されるべきだと主張しています。

おわりに

今回の海洋放出については、トリチウムのレベルが低ければ、海洋生物に影響がない限り、安全だと主張する専門家が大部分です。世界の原発は、トリチウム水(HTO)を日常的に排出していますが、これはあくまでも HTO の影響をベースにした規制基準での運用であって、世界の多くの専門家もこの基準で、福島処理水放出を捉えているわけです。

その意味では、中国をはじめとする世界の原発の年間トリチウム排出レベルよりも低いから福島海洋放出は安全だという主張を繰り返しても議論はそれ以上進みません。規制基準上は、世界のどの原発排水のトリチウム量も「安全」なのですから。

とはいえ、「安全」とする声は、どちらかと言えば、現象をできるだけ単純化、先鋭化して考える分野(物理、化学)の科学者に多いような気がします。物事を相互的に、総体的に、複雑化して捉える必要がある分野(海洋生物学、生態学)の科学者は、より慎重で批判的な見方をしている印象です。そして、いずれもが現時点での見解であり、これからのことについては IAEA の見解 [3] と同様に、その都度見直す必要があるという立場が伺えます。

問題は、この先「科学的根拠」を強調する日本政府や東電が、透明性ある科学的事実を積み重ね、その知見に耐えうるか、ということなのです。つまり、「トリチウムレベルが基準より低いから」ではなく、これから起こるであろう様々な現象と潜在的実害を的確に捉え、なお科学的根拠を盾にして国内外の批判に耐えられるかということです。

原発トリチウム排出基準は運用上の話であって、その影響については海洋生物での濃度がバックグランド(HTO)と平衡化できるという前提に立っていますが、実際の食物網(food web)の中では有機トリチウム有機結合トリチウムの動態と持続性が複雑で未解明な部分が多く、海洋生物に及ぼすトリチウムの影響に至っては全く不明です [5]。まさに、「トリチウムのような放射性核種に関わる問題は、科学が完全に答えられないことだ」という海外の科学者の指摘どおりです。議論に必要なデータがないのです。

世界の原発排出水と福島処理水が決定的に違うのは、前者がトリチウムだけで済む話が、後者はメルトダウンした燃料デブリに直接触れた汚染水の処理物であり、トリチウムのみならず、様々な放射性核種を考慮しなければいけないことです。古典的な発想である「基準以下に希釈すればOK」というレベルで留められる話ではなく、科学的根拠の看板を掲げるためには、実際に海洋で起こる現象と影響をきちんと捉えなければいけません。実際上は、トリチウムよりも様々な核種の相加的影響が問題になることを考えると、これらのきちんとした追跡調査が必要になります。

追跡調査には、正確性と透明性が要求されますが、果たして実現できるでしょうか。たとえば、東電の5年前のデータを見ると、福島第一原発の20 km圏内の魚体中のトリチウム濃度について、遊離自由水として微量検出されているのに対し、有機結合型は不検出となっています。食物網の関係があるので、一般的に原発周辺環境では、トリチウム水より魚体の有機トリチウムの濃度が1以上になるのが普通であり、このデータはとても不思議です。

ちなみに、英国の原発沿岸の分析では、海水中のトリチウム 10 Bq kg−1 に対して、同海域のヒラメの有機トリチウムでは 105 Bq kg−1(乾燥重量)と記録されていますので [6]、湿重量当たりで比較しても有機態で約1,000倍の値になっています。

引用文献・記事

[1] Blume, L. M. M.: Japan releases nuclear wastewater into the Pacific. How worried should we be? National Geographic August 24, 2023. https://www.nationalgeographic.com/premium/article/fukushima-japan-nuclear-wastewater-pacific-ocean

[2] Khadka, N. S. : The science behind the Fukushima waste water release. BBC News August 26, 2023. https://www.bbc.com/news/world-asia-66610977

[3] IAEA: IAEA comprehensive report on the safety review of the ALPS-treated water at the Fukuchima Daiichi Nuclear Power Station. July 2023. https://www.iaea.org/sites/default/files/iaea_comprehensive_alps_report.pdf

[4] National Association of Marine Laboratories: Scientific opposition to Japan’s planned release of over 1.3 million tons of radioactively contaminated water from the Fukushima-Daiichi Nuclear Power Plant disaster into the Pacific Ocean. -December 2022. https://www.naml.org/policy/documents/2022-12-12%20Position%20Paper,%20Release%20of%20Radioactively%20Contaminated%20Water%20into%20the%20Ocean.pdf

[5] Mousseau, T. and Todd, S. A.: Biological consequences of exposure to radioactive hydrogen (tritium): A comprehensive survey of the literature. SSRN posted April 17, 2023. https://papers.ssrn.com/sol3/papers.cfm?abstract_id=4416674

[6] McCubbin, D. et al.: Incorporation of organic tritium (3H) by marine organisms and sediment in the severn estuary/Bristol channel (UK). Mar. Pollut. Bull. 42, 852–863 (2001). https://doi.org/10.1016/S0025-326X(01)00039-X 

引用したブログ記事

2023年8月28日 放射能汚染処理水放出と今後の影響

      

カテゴリー: その他の環境問題

放射能汚染処理水放出と今後の影響

2023.8.30更新

カテゴリー:その他の環境問題

カテゴリー:社会・政治・時事問題

はじめに

日本政府と東京電力は、8月24日、福島第一原発事故跡の燃料デブリから生じる放射能汚染水について、その処理水(ALPS処理水)の海洋放出を開始しました。処理水放出が実施されれば、福島および周辺の海産物のブランドイメージを悪化させることが当初から想定されてきたわけですが、予想どおりというか、早くも中国、香港などの禁輸措置と価格低下などの動きが出ているようです。

中国からの嫌がらせの電話、謂れのない噂(いわゆる風評)や暴力的抗議活動 [1] などは論外ですが、処理水放出に伴うイメージ悪化による周辺国の対応と価格低下は当然予想されたことであり、早速これを全面的に「風評被害」と言い換えて責任転嫁する政府の姿勢もいかがなものかと思います。

中国は、政治的行き詰まりを海外との取引措置に替えて凌ぐというのは常套手段です。これまでに台湾からのパイナップル輸入禁止、フィリピンからのバナナ輸入禁止などの実例があります。中国の今回の対応を想定外とある閣僚が述べましたが、無責任で無能を露呈する発言でしょう。加えて周辺国との事前調整もなく「汚染処理水を海に流す」既成事実からいきなりスタートするというのは、やはりこのプロセスに相当な問題があったと言えます。その結果が「風評被害ではない実害の発生」です。

政府は盛んに安全性に関する科学的根拠を強調しますが、ブランドイメージ低下は科学的根拠とは直接関係ありません。政府と東京電力に対する信頼性と相手側の主観の問題なのです。いくら数字上の根拠を示されても信頼性と手続きの合理性がなければ安心感は得られず、したがってイメージ低下と経済的被害は避けられないという「安全と安心の発生メカニズム」(→食の安全と安心)を政府と東電はよく理解する必要があります。

このような混乱を防ぎ、被害を最小化するためには、情報の透明性に基づくリスクコミュニケーション、事前の根回しと調整、そして当事者の理解レベルを一定に保つことがきわめて重要です。それらを通じて、科学的根拠に基づく安全性と信頼性に基づく安心をバランスよく担保し、ある政策決定とその行使がどのような影響を与えるかを的確に予測し、それに備えることが肝要なのです。

政府は、ALPS処理水放出に関する安全性について、特にトリチウムを取り上げながら、ウェブ上でも情宣してきました [2, 3, 4]。しかし、これらのウェブ情報を読めば読むほど、逆に分からないことがどんどん出てくるという感じがします。いずれにおいても、とくに地元漁業者の理解を得るという点においては、政府と東電の努力は全く不足していました。

政治家が「理解は得られた」、「安全性に関する科学的根拠」、「風評被害」という言葉を口にするばかりではイメージ低下という事態は一向に改善しません。このブログでは、処理水放出に関わる情報の正確性、疑問点、今後の懸念材料について、主として科学の観点から述べたいと思います。

1. 廃炉プロセスとの関係

そもそも、今回始めてしまった汚染処理水の海洋放出が「いつ終わるのか」いうプロセス完了の道筋を導き出せる科学的、技術的根拠はほぼゼロです。問題の根源にある、廃炉完了に必要な「880トンと見積られている燃料デブリの取り出しは、震災後スプーン1杯分も進んでおらず、この先の完了に至る技術的見通しも立っていません [5]。処理水放出の理由の一つとして、取り出したデブリの保管場所を確保するためという言い方がされていますが、デブリそのものが取り出せないでいるのです。土地と言うなら周辺にいくらでもあります。

デブリの冷却と流れ込む雨水・地下水で生じる膨大な量の汚染水は、東電の報告によれば減少しているようですが、現在は約100トン/日であり [6]デブリの取り出しができなければ半永久的に汚染水が発生します。政府と東電は処理水放出完了に30年という数字を挙げていますが、どのような根拠なのでしょうか?  保管するタンクの総量約137万トン [6] を30年、365日で割ると、125トン/日になります。つまり、1日当たり汚染水125トンに相当する海水希釈処理水を放出すれば、30年で全部のタンクが空になる計算ですが、一方で100トン/日のスピードで汚染水が溜まり続けているのです。

ALPS 処理水の海洋放出はバッチ処理ではなく、連続した工程(あるいはフェッド・バッチ [fed-batch] 処理)になります。すなわち、そこに含まれる放射性物質の主体であるトリチウムの影響は、その半減期ではなく常に「フレッシュ」なトリチウムが蓄積されていくという前提で議論する必要があります。トリチウム以外にも様々な核種も含まれていますが(後述)、同様な前提で議論が必要です。もし、処理水放出の海洋生物への影響があるとするなら、この先時間が経てば経つほど、それが現れてくるということになるでしょう。

2. IAEAの報告

今回の海洋放出の判断に至った背景には、国際原子力機関 IAEA による安全性評価が、「お墨付き」として大きく影響していることは論を待ちません [7]IAEA は、今年7月4日、「福島第一原発における ALPS 処理水の安全性評価についての包括的理解」という報告書を公表しました [8, 9]。

IAEA は、この包括的な評価に基づき、ALPS 処理水の海洋放出に対するアプローチ、および東京電力原子力規制委員会、日本政府による関連活動は、関連する国際安全基準に合致していると結論付けています。同時に、ALPS 処理水の海洋放出が、放射線の側面に関連して、社会的、政治的、環境的な懸念を引き起こしていることも認識しているとしています。しかしながら、東京電力が現在計画している ALPS 処理水の排出は、人々および環境に対する放射線学的影響という点については無視できると結論付けています。

ただし、上記の結論にかかわらず、いったん放出が開始されれば、技術面と安全面で再検討される必要があると IAEA は強調しています。つまり、タスクフォースによって検討・評価された多くの技術的トピックスについて、ALPS処理水放出の運転中の活動と関連する国際安全基準との間に整合性があるかどうか、さまざまなタイミングで再検討される必要があると念を押しています。

報告書(英文)は長くて読むのが大変ですが、その概要は経産省のウェブサイト [7] にも記されているので参考にすることができます。まず、ALPS 処理水の放出については、人および環境に対し、無視できるほどの放射線影響しかなく、かつ放射線環境影響評価は、食物連鎖生物濃縮なども考慮しながら、国際基準に適合して実施されているとしています(ただし、食物連鎖と生物濃縮については情報不十分)。

ALPS 処理水中の放射性物質の種類については、十分に保守的でかつ現実的に考慮できるものとしており、日常的に検出されるものとして、7 つの主要核種(134Cs、 137Cs、60Co、125Sb、106Ru、90Sr、129I)とトリチウム14C、99Tc を挙げています(もちろん東電の分析データでも示されている)。この辺りは、国内メディアの報じ方の影響もあって、「トリチウム以外はすべて除去されている」という国民の誤解があるかもしれません。国際水域への影響については、海洋拡散モデルに基づけば、海洋放出の影響を受けず、越境影響は無視できるとしています。

処理水放出の制御システムやプロセスについては、堅固であって、緊急遮断弁や放射線検出器などが重層的にシステムに組み込まれているとしています。また、規制委員会は日本国内の独立した規制機関として、安全に関する適切な法的・規制の枠組みを制定・実施しており、日本政府と東京電力のモニタリングに関する活動は、国際安全基準に適合していると報告しています。

日本でしばしば誤解されているのは、この IAEA の報告書 [9] は、単に今の日本の取り組みが国際的な基準に合致していて、現時点では安全性に問題はないと言っているだけのことであって、IAEA 自体が処理水放出を支持しているものではないということです。さらに、放出に伴うこれからの影響については別問題であって、再検討が必要であると念を押していることです。

これを象徴的に示しているのが、この報告書の巻頭言にあるグロッシ事務局長の言葉です。それを(翻訳を添えて)直接以下に引用します。IAEAは、日本の処理水放出を推奨も支持もしていないと述べています。

Finally,  I  would  like  to  emphasise  that  the  release  of  the  treated  water  stored  at  Fukushima  Daiichi  Power  Station is a national decision by the Government of Japan and that this report is neither a recommendation nor an endorsement of that policy. However, I hope that all who have an interest in this decision will welcome the IAEA’s independent and transparent review, and I give an assurance, as I said right at the start of this process, that the IAEA will be there before, during and after the discharge of ALPS treated water.

最後に、福島第一原子力発電所に貯蔵されている処理水の放出は、日本政府による国家的決定であって、この報告書がその方針を推奨するものでもなければ、支持するものでもないことを強調しておきたい。しかしながら、この決定に関心を持つすべての人々が、IAEA の独立した透明性のあるレビューを歓迎することを願っている。そして、このプロセスの開始時に申し上げたように、IAEA は ALPS 処理水の放出前、放出中、そして放出後に立ち会うことを保証する。

IAEAは軍事以外で原子力利用を推進する立場の機関であり、日本を含む各国政府から巨額の分担金や拠出金を受け取っているという事情もあり、今回のIAEAの「お墨付き」が中立的な立場から出たかどうかについては、一考の余地があるかもしれません [10]。現時点でのお墨付きを与えながら「支持はしていない」と強調しているところは、逃げと言うか、苦しい言い訳になっている印象もあります。

3. 有機結合型トリチウムと主要核種の動態

トリチウムは、水素(1H)の放射性同位体3H、半減期=約12.3年)で、弱い放射線ベータ線)を出します。自然界でのトリチウムの全存在量は 1~1.3×1018 Bq(ベクレル)と推定されていますが、このうち、宇宙線等により地球上で自然発生するトリチウムが年間約 7×1016 Bq 程度、全世界の原子力発電所からの年間放出量が 2×1016 Bqとされています [11]。過去の核実験(1945~1963年)では、膨大な量のトリチウム(1.8~2.4×1020 Bq)が放出されました。

上記のように、物理的に生成するトリチウムは、主にトリチウム水(HTO)の形で存在します。大気中に存在するトリチウムの約99%が HTO の形態であることを考慮すると [12]、蒸気交換、降水、河川流出を通じて海洋に急速に流入し、海洋生態系の一次生産に利用されると予想されます。水は、藍色細菌(シアノバクテリア)や植物の酸素発生型光合成において、二酸化炭素を固定して有機物(炭水化物)をつくるための還元力として使われます(式1)。

ここで、水の代わりに HTO が取り込まれると(取り込みの同位体効果 [ここでは軽水素を優先的に選択する効果] はあるかもしれないが)、生成する炭水化物のみならず、光合成生物細胞内でつくられるすべての有機物がトリチウムで標識されることになります 。このように構造的に有機物の構成成分になったトリチウム有機結合型トリチウム(OBT)とよんでいます [13]。自然界の一次生産で OBT が生成されると、一次、二次、三次消費者と順に OBT が移行し、食物連鎖上のすべての生物種の体の一部が OBT で構成されることになります。

有機物は消費者による酸素呼吸で酸化分解され(式1の逆反応)、最終的に水と二酸化炭素になります(タンパク質の場合はさらにアンモニアを生成)。したがって、OBT は生物体として留まることはあっても、代謝の過程で、あるいはその遺骸の分解過程で HTO になります。それゆえ、HTO は無論のこと、食物連鎖の過程で高度に OBT が生物濃縮(bioconcentration)することは考えにくいとされています。ちなみに、水中から物質が生物に摂取・濃縮され、水中のそれよりも濃度が高くなることを生物濃縮と言います。さらに、あらゆる環境から物質が取り込まれて濃縮されることを生物蓄積(bioaccmulation)と言って区別しています。

このように、トリチウムは、生物地球化学的循環(=生物が関わる地球規模の循環)のなかにある放射性同位元素なので、基本的に生物体が交換プール(exchange pool)として機能する間だけ、生物体に留まると考えられます。生物体内でのトリチウムは、組織水中よりも OBT 中で高い濃度を示すことが報告されていますが、これは生物学的条件では平衡状態に達しないためと考えられます [13]

ただ、生物の場合、有機物に結合したトリチウムについて決定されている濃縮係数は、従来定義されている生物濃縮係数と同等と見なすべきではなく、したがって、従来の生物濃縮の概念からは除外できるとされています [14]。そして、一次生産(光合成)の反応(式1)で炭素固定が起こる分、単位重量当たりのトリチウムの割合は小さくなりますので、OBTは環境、組織中のトリチウム水よりも濃度が小さくなり、蓄積があったとしても相殺されるかもしれません。

実際には、OBT はトリチウムが酸素や窒素原子と結合した交換型、および炭素原子に結合した非交換型とがあり、前者が環境の HTO と平衡化しやすいのに対し、後者はより持続性が高いとされています [15]。したがって、環境の HTO よりも高い生物体内 OBT濃度は、これらの反応プロセスの平均化したものとして現れていると考えられます。

生物体内での OBT の持続性は、体を構成するキチン、セルロース、アルギン酸などの多糖類、構造タンパク質などのターンオーバーが遅い高分子有機物でより重要になると考えられます。これらは生物体として寿命の間だけ留まるばかりでなく、遺骸になった場合でも分解に時間を要し、デトリタスとなり、堆積物となって長時間滞留する可能性があります。

海水中には溶存態有機物(DOM)が大量に存在しますが、実際に海洋に存在するDOMの90%以上は、細胞由来の生体分子ではなく、同定できない多種多様の有機物で構成されています。さらに、DOM の大部分は,細菌に分解されずに残存する「難分解性DOM」として、数百年から数千年もの寿命を有すると言われています [16]。これらの起源が光合成であって、 OBT で置き換わるとすると、HTO に分解されないまま長期間存在するということになります。

ちなみに、現在の海水中のトリチウム分析では蒸留法を用いていますので、DOMおよび懸濁有機物中のトリチウム(海水中OBT)は無視されます。

経産省資源エネルギー庁は「体内に取り込まれた OBT の多くは40日程度で体外に排出され、一部は排出されるまで1年程度かかる」と述べています [4]。しかし、これは バッチで代謝された場合の話であり、HTO が連続的に放出される状態での海産生物内の OBT 滞留とターンオーバー、それを人が日常的に摂食し続ける場合については、よくわかっていないと考えた方がよいでしょう。

さらに、経産省は「OBT の健康影響を HTO と比較すると2~5倍程度となる」としながらも、その健康影響については無視できるというニュアンスです。「もともと HTO の健康影響は1ベクレルあたり0.000000019で、2~5倍になったとしても、ほかの放射性物質とくらべて特別に健康影響が大きいとはいえない」、「セシウムから受ける健康影響と比較してみると、約300分の1になる」と述べています [4]

しかし、やや古い文献ですが、原発沿岸の海水中のトリチウム 10 Bq kg−1 に対して、同海域のヒラメで 105 Bq kg−1(乾燥重量)という数字が記録されていますので [17]、OBT と HTO の健康影響については、もう少し幅広い範囲で見る必要があるでしょう。

さらに、トリチウムセシウムの単位当たりの放射線の健康影響を相対的に論じてもあまり意味がなく、いま強調しすぎると、言わば相対的窮乏の誤謬になってしまいます。つまり、本質は机上の相対的な健康影響ではなく、時間経過に伴う総量と実害の問題であって(上記の例で言えば、セシウムの300倍濃度のトリチウムであれば、セシウムと健康影響は同じになってしまう)、自然界のバックグランドに加えて放出されるトリチウムおよび多種多様の核種各々の総量に基づく相加的影響の観点から論じられるべき問題なのです。この点は、COVID-19 の脅威において、致死率や重症化率ばかりが強調されて、犠牲者数などの実害が無視されてきた傾向と似ているかもしれません。

日本は、核燃料デブリ由来の汚染水を処理して、この先数十年連続的に海洋放出するという人類史上例のない実験をやり始めました。この先の結果は、誰にも予測できません。なぜなら、その総量、相加的影響がどのくらいになるのか誰にも予測できないからです。だからこそ、IAEA は、今後の処理水放出について「国際安全基準との間に整合性があるかどうか、さまざまなタイミングで再検討される必要がある」と言っているわけです。

いま言えることは、トリチウムが連続的に放出されることによって、経時的に海洋の有機物と生物体における OBT の割合が増えるだろうということ(体のトリチウム標識レベルが上がっていく可能性)、主要放射性核種の堆積物・生物蓄積が起こるだろうということです。海洋生物への影響は不明です。専門家には、これからしっかりデータをとってもらいたいと思います。

IAEAの報告書 [9] によれば、東京電力は当初、人がトリチウムを摂取することによる線量を推定するために、すべてのトリチウムが HTO の形態であると仮定していたようです。これは東電が、処理水放出と健康影響についていかに甘く、非現実的に捉えていたかの現れだと思われます。

IAEA タスクフォースは、たとえ全線量に対するトリチウムの線量の大きな寄与はないとしても、食品の摂取に関しては OBT も含めることが重要であると助言しています。 さらに、これは多くの利害関係者が関心を持つトピックである可能性が高いことを指摘し、東電に対し、OBT 形成の不確実性と関連する線量についてより適切に説明するよう提言しています。

今日、処理水放出後のヒラメのトリチウム分析結果が発表されていましたが [18]魚体の水分を対象とする迅速分析なのであまり意味はありません。魚の水分中のトリチウム濃度は生息域の海水中のそれ以上にはなりません。魚の OBT の分析には、試料を凍結真空乾燥した後、燃焼し、燃焼ガス中の水分を回収する必要があり、時間と専門性が求められます。現在の技術では、分析に短くても数週間かかります。

IAEA は、生物地球化学的プロセスにおける OBT の生成には直接言及しておらず、放射性核種の吸着、沈着による滞留を考慮しています。すなわち、放射性核種が継続的に海に放出されると、「浮遊物質に吸収されて海底に沈着することがある」と述べています。これは継続的なプロセスであり、時間の経過とともに海底堆積物に放射性核種が蓄積されます。 このプロセスでは、放射性核種は海水と海底堆積物との間に平衡状態が仮定される時点まで、時間の経過とともに海洋環境に蓄積されますが、この平衡状態に近づく時期は核種によって異なり、放流開始直後に起こる場合もあれば、何年も経ってから起こる場合もあります(図1)。

図1. 海水および堆積物中の放射性核種の動態(文献 [9] からの転載).

ただし、生物地球化学的循環にない主要放射性核種が生物体内に取り込まれてしまうと、生物濃縮が起こり、食物連鎖を通じて生物拡大(高次消費者ほど蓄積される現象、biomagnification)していく可能性があります。マグロなどの洄游魚に高濃度の水銀が蓄積されるのと同じ理屈です。いずれにしても、OBT のみならず、主要核種の生物濃縮およびそれらの相加的影響に焦点が当てられるべきでしょう。

この面で最も危惧される核種はヨウ素129であると思われます。ALPS処理水のトリチウムを除けば最も多い核種の一つがヨウ素129です。何せ半減期が1570万年と桁違いに長く、これから少なくとも数十年間放出された量がそのまま残ると考えられます。さらに、海藻(特にコンブ)やある種の細菌は、単独で高度にヨウ素を生物濃縮します。海草類は日本人の食卓に直結する水産食品であり、事前の定期的な分析が必要でしょう。

IAEA が言及していない、もう一つの主要核種の動態については、マイクロプラスチックによる吸着と移行・拡散の可能性があります。海洋は膨大な量のマイクロプラスチックで汚染されており、また魚や海水由来の食塩などを通じて私たちはそれを摂食しています。マイクロプラスチックが、放射性物質の移動媒体と機能していることは、すでにいくつかの論文で示されています [19, 20, 21]

4. OBTに関する先行研究

世界的に、浮遊粒子状物質や堆積物中の OBT に焦点が当たるようになったのは、特に2011年の東日本大震災の後からです。福島第一原発メルトダウン事故を契機として、研究が増加しました。しかし、それでも現在に至るまで散発的と言えるほどの報告数になっていて、OBT の挙動については不明な部分が多いと言えます。上記でいくつかの関連論文を引用しましたが、ここでさらに、いくかの先行研究を紹介します。

Jean-BaptisteとFourré [22] は、堆積物有機物とトリチウム(T)水との間で2回の平衡化実験を行い、潜在的有機トリチウム濃度を調べました。その結果、平衡化後に測定されたT/H比は、水中よりも堆積有機物中の方が低く、堆積物中の水素プールの一部(14%から20%)だけがトリチウム水と平衡化したことがわかりました。つまり、水中と比較して堆積物中にトリチウムが蓄積されるという兆候は見られないということです。

しかし、上記の実験は、水–懸濁物の平衡化プロセスにおけるトリチウムの移行を示しただけの結果であり、食物連鎖や時系列での OBT の蓄積の可能性については何ら示唆を与えないことは上述したとおりです。

HTO から OBT へのトリチウム移行については、JaeschkeとBradshaw [23] の研究が示唆的です。トリチウムは速やかに水中に分散し、低エネルギーで放出されるため毒性は低いという仮定から、各国においては現在沿岸域での大量放出が許可されています。原発からのトリチウム水の海洋排出はこの仮定と法律に則ってなされているわけです。しかし、沿岸海域の生物にトリチウムが濃縮あるいは移行する可能性のあることを、この研究は実証しました。

具体的には、緑藻 Dunaliella tertiolecta および藍色細菌 Nodularia spumigena の2種の光合成生物集団を異なる成長段階において HTO(10 MBq L−1)に暴露させ、細胞中のOBTへの変換を追跡しました。その結果、両種は HTO を OBT に変換することが認められましたが、緑藻においては、定常増殖期よりも指数関数増殖期において有意に多くのトリチウム蓄積が見られる一方(藍色細菌の11倍)、藍色細菌では成長段階の影響は検出されませんでした。

その後、トリチウム化した緑藻をイガイ Mytilus edulis に3週間にわたって定期的に給餌したところ、イガイ組織中に有意レベルのトリチウムが検出されました。そして、ほとんどのイガイの組織へのトリチウム取り込みは、トリチウム標識緑藻の給餌数と直線的な関係にあり、平衡化は見られませんでした。トリチウム化緑藻からイガイ組織への OBT の蓄積は、水中濃度が低下した場合でもトリチウムの環境関連移行経路があることを示しており、OBT が難分解性有機汚染物質として作用するという有力主張を支持する結果となりました。

これらの結果に基づいて、JaeschkeとBradshaw [23] は、トリチウム排出に関する現在の法律は、有機形態のトリチウムの性質を十分に考慮していないため、環境中のトリチウムの蓄積と毒性効果を過小評価している可能性があると指摘しました。そして、このような情報が、日常的な海洋放出におけるトリチウムの分布を正確に評価し、環境と人間を適切に保護するために必要であると強調しています。

上記の研究は、環境中のトリチウムの生物動態と影響の指標として、単一の「モデル」種を用いることの欠陥を浮き彫りにしています。そして、トリチウム放出管理に対する生態学的観点から、HTO の放出は、植物プランクトン光合成増殖と重ならないようにすること(たとえば日没から夜間)が推奨されるかもしれません。

Pearsonら [24] は、放射性物質の毒性は化学種特異性に支配される部分があり、汚染物質の混合による毒性作用は必ずしも相加的ではないとの見解に立脚して、暴露水の化学的性質と、生物学的作用およびトリチウムの組織特異的蓄積との関連付けを行ないました。実験では、海産イガイ Mytilus galloprovincialis を 5 Mbq L−1の HTO および3段階の濃度の亜鉛の混合物に14日間暴露し、軟組織におけるトリチウム亜鉛の分配、血球における DNA 損傷を調べました。

その結果、使用したすべての亜鉛濃度で、トリチウム誘発 DNA 損傷に対する亜鉛の明確な拮抗作用が認められ、これは DNA 修復酵素における亜鉛の重要性によって説明されると考えられました。

イガイを溶存有機物(DOM)としてのフミン酸と HTO に暴露した場合、最初の3日間はトリチウムと DOM の強い結合が観察され、イガイからトリチウム結合体の分泌が認められました。この結果から、トリチウムの毒性を早期に生物学的に制御するメカニズムがある可能性が示唆されました。結論として、本論文は、環境中の放射性核種に対するリスク評価では、潜在的な混合物の影響を考慮する必要があるとしています。

Eyrolle-Boyerら [25] は、核実験による地球規模の大気降下物によって歴史的に汚染された陸上バイオマス・プールが、水系への OBT の重要な遅延供給源となっており、その結果、OBT が HTO に比べて見かけ上濃縮されていることを示しました。この知見は、原発などの放射性廃棄物による直接的な影響を受けていない地域で観察された1以上の濃度係数(生物相中のトリチウム濃度/水中濃度)を説明するのに役に立つとしています。

Eyrolleら [26] は、フランスのロワール川流域で採取した70年前の堆積物中のトリチウムの遊離型と結合型の両方を分析しました。その結果、堆積貯留層がトリチウムの吸収源であると同時に、それが移動可能であり、生物学的に利用可能なトリチウム潜在的な遅延供給源であることを実証しました。これは、トリチウムが何十年にもわたって堆積貯留層内に捕捉される可能性があることを直接的に示しており、生物を含む様々な環境区画や構成要素における現在の OBT と HTO の不均衡(1 : 1ではない)の大部分を説明できるとしています。

また彼らは、このようなアプローチが、福島第一原発のような河川および海洋沿岸環境の両方において、事故後に放出されたトリチウムとその起源(流域への大気沈着/液体放出)を推定するためにうまく適用できると述べると同時に、事故後のトリチウム放出管理に関する直接的な懸念を提起するとしています。

上記のように、OBTではHTOよりもトリチウム濃度が高くなる傾向にありますが、これは代謝過程にない物質の生物濃縮とは、区別されるべきものかもしれません。自然界における OBT の分布やトリチウムの生体影響(ラボレベルでの研究が主)に関する研究はほとんどなく、何もわかっていないと言った方がよいでしょう [27]

HTO や OBT の放射線生物学分野の論文数は増加していますが、自然生態系に関するものは少なく、異なる分類群や種で利用可能なデータの間には格差が存在し、得られた知見は海産二枚貝、魚類、哺乳類(げっ歯類)に大きく偏っています。このような制約の中で、トリチウム被曝に対する分子レベルから行動レベルまでの様々な応答が、初期のライフステージにおいて報告されていますが、潜在的な世代を超えた影響については不明です。

このような状況に鑑み、Ferreiraら [15] は、彼らの総説の中で、「オミックス(omics)」技術の応用がこのような知識のギャップを埋めるのに役立つとしています。より多様な基幹生物種を用いて、複数のストレス因子の暴露下における、バイスタンダー効果、生殖細胞系列効果、世代交代効果、エピジェネティック効果などを解明することで、放射性核種の環境リスク評価を改善できるとしています。さらに、これらは、機械学習(ML)を含む人工知能(AI)や生態系ベースのアプローチと組み合わせることができると述べています。

おわりに

今回の政府と東電による処理水の海洋放出は、いきなりその既成事実化からスタートするというプロセスに問題があったことは否めません(被害を予測し、その防止のための事前外交努力をした気配が見られない)。中国の水産物輸入禁止措置は政治判断ですが、少なくとも「仮に放射能汚染水が安全であれば海洋放出する必要はなく、安全でないならば海洋放出をしてはならない」という合理的主張 [28] に対しては、日本側は合理的に反論できていません。科学的根拠を盾にするなら、合理的に説明されなければいけません。

そして、世論調査では、国民の過半数が処理水の海洋放出に賛成しているようですが、政府やメディアの伝え方もあって、誤解している部分もあるのではないかと思います。ここで再度、事実やなすべきことを列記しておきたいと思います。

●ALPS処理水にはトリチウム3H)のみならず、7つの主要核種、および14C、99Tc が安定して含まれる

●海洋放出に伴う生態的影響、健康影響については、主要核種の海水中、堆積物、および食物連鎖における動態に基づいて考えられるべきである

トリチウムの影響は、トリチウム水ではなく、有機物に取り込まれた、あるいは有機物に付着した形態で考慮すべきである

IAEAは処理水の海洋放出を支持していない

IAEAは現時点で海洋放出に伴う健康影響は無視できるとしているが、今後は適宜再検討が必要としている

最後に、ALPS処理水は海水で希釈して放出となっていますが、ここにも考慮すべき問題があります。この希釈用海水は港湾内でくみ上げられたものと推定されますが、もし港奥部の1-4号機取水路開渠(高濃度セシウム汚染のクロソイが見つかったところ [29])の影響があるところで取水されているとすれば、セシウムストロンチウム90で汚染された海水 [30] で処理水で希釈し、1 km の沖合で放出して海を汚すようなものです(下の追記・訂正参照ください)。

うがった見方をすれば、原発跡のすぐ傍の海で放出してしまうと、トリチウムのバックグランドが高いために、期待するような放出後の海水中トリチウムの検出結果にならないということなのでしょう。ただ、ALPS 処理水を汚染海水で希釈して主要核種を拡散させるようであれば、汚染を広げることになります。

処理水放出に関わる問題の本質は、海水中のトリチウム濃度(HTO濃度)ではなく、内部被曝に関わる海産生物の OBT と主要核種の濃度、環境中の懸濁物や堆積物における放射性物質の量的・質的分布、およびその相加的影響にあります。今後、それらをベースにした生態的安全性、海産物の安全性、および健康影響を評価していく必要があります。

2023.8.30更新(追記)

上記「おわりに」で、「この希釈用海水は港湾内でくみ上げられたものと推定されますが、...」と書きましたが、X(旧ツイッター)上で、「港湾内 5~6 号機前を港湾内の他とは仕切堤で遮断して取水池とし、そこに港湾外から流入した海水をくみ上げているようです」との指摘がありました(https://www.env.go.jp/content/900544122.pdf)。ここに追記・修正しておきます。

引用文献・記事

[1] NHK NEWS WEB: 処理水放出【国内外の動き】投石で中国の日本人学校は警備強化. 2023.8.27. https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230827/k10014175391000.html

[2] 経済産業省: ALPS処理水って何? 本当に安全なの? https://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/hairo_osensui/shirou_alps/no1/

[3] 経済産業省資源エネルギー庁: 安全・安心を第一に取り組む、福島の“汚染水”対策②「トリチウム」とはいったい何? 2018.11.22. https://www.enecho.meti.go.jp/about/special/johoteikyo/osensuitaisaku02.html

[4] 経済産業省資源エネルギー庁: 安全・安心を第一に取り組む、福島の“汚染水”対策③トリチウムと「被ばく」を考える. 2018.11.30. https://www.enecho.meti.go.jp/about/special/johoteikyo/osensuitaisaku03.html

[5] 増井のぞみ: 福島第一原発、建屋水没させデブリ取り出す工法 変更繰り返した末、実現性見通せない案 事業難航の象徴. 東京新聞 2022.10.24. https://www.tokyo-np.co.jp/article/209821

[6] 小川慎一: 福島原発の処理水発生量が1日当たり100トンを下回ったことが判明 2022年、事故後初めて. 東京新聞 2023.01.14. https://www.tokyo-np.co.jp/article/225159

[7] 経済産業省: 国際機関によるALPS処理水海洋放出の安全性確認. https://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/hairo_osensui/shirou_alps/reports/02/

[8] IAEA: IAEA Reports on Fukushima Daiichi ALPS Treated Water Release. July 4. https://www.iaea.org/newscenter/multimedia/videos/iaea-reports-on-fukushima-daiichi-alps-treated-water-release

[9] IAEA: IAEA comprehensive report on the safety review of the ALPS-treated water at the Fukuchima Daiichi Nuclear Power Station. July 2023. https://www.iaea.org/sites/default/files/iaea_comprehensive_alps_report.pdf

[10] 大杉はるか、西田直晃: 原発処理水の放出にお墨付き…IAEAは本当に「中立」か 日本は巨額の分担金、電力業界も人員派遣. 2023.7.08. https://www.tokyo-np.co.jp/article/261656

[11] 環境省: トリチウムの自然界での存在量. 2021.3.31. https://www.env.go.jp/chemi/rhm/r4kisoshiryo/r4kiso-02-05-18.html

[12] Liger, K. et al.: Overview of the TRANSAT (TRANSversal Actions for Tritium) project. Fusion Eng, Des. 136, 168–172 (2018). https://doi.org/10.1016/j.fusengdes.2018.01.037

[13] Diabaté, S. and Strack, S.: Organically bound tritium. Health Phys. 65, 698-712 (1993). https://journals.lww.com/health-physics/abstract/1993/12000/organically_bound_tritium.8.aspx

[14] Eyrolle, F. et al.: An updated review on tritium in the environment. J. Environ. Radioact. 181, 128–137 (2019). https://doi.org/10.1016/j.jenvrad.2017.11.001

[15] Ferreira, M. F. et al.: Tritium: Its relevance, sources and impacts on non-human biota. Sci. Total Environ. 876, 162816 (2023). https://doi.org/10.1016/j.scitotenv.2023.162816

[16] 大森裕子: 海洋表層における溶存有機化合物に関する生物地球化学的研究. 地球化学 53, 47–58 (2019). https://www.jstage.jst.go.jp/article/chikyukagaku/53/2/53_47/_pdf

[17] McCubbin, D. et al.: Incorporation of organic tritium (3H) by marine organisms and sediment in the severn estuary/Bristol channel (UK). Mar. Pollut. Bull. 42, 852–863 (2001). https://doi.org/10.1016/S0025-326X(01)00039-X 

[18] 読売新聞オンライン: 処理水放出口から4~5キロの海域で採取したヒラメ、トリチウム検出されず…水産庁 . https://www.yomiuri.co.jp/science/20230828-OYT1T50234/

[19] Ioannidis, I. et al.: Microplastics as radionuclide (U-232) carriers. J. Mol. Liquids 351, 118641. https://doi.org/10.1016/j.molliq.2022.118641

[20] Rout, S. et al.: Microplastics as vectors of radioiodine in the marine environment: A study on sorption and interaction mechanism. Environ. Pollut. 307, 119432 (2022). https://doi.org/10.1016/j.envpol.2022.119432

[21] El Zrelli, R. et al.: PET plastics as a Trojan horse for radionuclides. 
J. Hazard. Mater. 441, 129886 (2023). https://doi.org/10.1016/j.jhazmat.2022.129886

[22] Jean-Baptiste, P. and Fourré:, E. The distribution of tritium between water and suspended matter in a laboratory experiment exposing sediment to tritiated water. J. Environ. Radioact. 116, 193-196 (2013). https://doi.org/10.1016/j.jenvrad.2012.11.004

[23] Jaeschke, B. C. and Bradshaw, C.: Bioaccumulation of tritiated water in phytoplankton and trophic transfer of organically bound tritium to the blue mussel, Mytilus edulis. J. Environ. Radioact. 115, 28-33 (2013). https://doi.org/10.1016/j.jenvrad.2012.07.008

[24] Pearson, H. B. C. et al.: Mixtures of tritiated water, zinc and dissolved organic carbon: Assessing interactive bioaccumulation and genotoxic effects in marine mussels, Mytilus galloprovincialis. J. Environ. Radioact. 187, 133-143 (2013). https://doi.org/10.1016/j.jenvrad.2017.12.018

[25] Eyrolle-Boyer, F. et al.: Apparent enrichment of organically bound tritium in rivers explained by the heritage of our past. Radioact. 136, 162-168 (2014).   https://doi.org/10.1016/j.jenvrad.2014.05.019

[26] Eyrolle, F. et al.: Evidence for tritium persistence as organically bound forms in river sediments since the past nuclear weapon tests. Sci. Rep. 9, 11487 (2019). https://doi.org/10.1038/s41598-019-47821-1

[27] Mousseau, T. and Todd, S. A.: Biological consequences of exposure to radioactive hydrogen (tritium): A comprehensive survey of the literature. SSRN posted April 17, 2023. https://papers.ssrn.com/sol3/papers.cfm?abstract_id=4416674

[28] CRI online(日本語): 外交部 放射能汚染水が安全ならば海洋放出する必要なし. 2023.08.24. https://japanese.cri.cn/2023/08/24/ARTILe50cu7k0FHIxIy02nMt230824.shtml

[29] 経済産業省農林水産省: 福島第一原子力発電所港湾内で見つかったセシウム濃度の高い魚について. 2023.6.16. https://www.hk.emb-japan.go.jp/files/100518052.pdf

[30] 東京電力ホールディングス株式会社: 福島第一原子力発電所港湾内・周辺海域の海水モニタリング状況. 2023.6.08. https://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/578266.pdf

引用したブログ記事

2018年3月11日  食の安全と安心

      

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