Dr. TAIRA のブログII

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日本人のマスク着用は社会的規範に影響されない

カテゴリー:感染症とCOVID-19 (2024年)

はじめに

COVID-19 パンデミックが始まってからの、日本人のマスク着用率が高いことはよく知られています。政府のマスク着用に関する「個人の判断になりました」という通達があり、COVID-19 の感染症法上の分類が 5 類に移行した後も、依然としてかなりの割合でマスク着用が見られます。

マスク着用に関するこの行動は、どのような要因が影響しているのでしょうか。もちろん、流行りの感染症に罹りたくないという予防的な意味での対応ということは言えますが、それだけではないような気がします。

この日本人のマスク着用に関する行動について、先月興味深い英文論文が出ました [1](図1)。COVID-19 の 5 類化以降のマスク着用は、社会的規範に従おうとする心理によって説明できるものではなかったという内容です。論文を発表したのは、大阪大学大学院人間科学研究科/大阪大学感染症総合教育研究拠点の三浦麻子教授らの研究グループです。日本語の解説記事も出ています [2]。この論文について、ここで翻訳しながら紹介したいと思います。

1. 研究の概要

本研究では、2022 年 10 月から 2000 名の日本在住者を対象に実施されてきた長期にわたるパネル調査データが用いられました。この期間中には、当初、マスク着用について政府による強い推奨がありましたが、2023 年 3 月にはマスク着用は「個人の判断」という緩和メッセージが出され、同年 5 月には COVID-19 が5類に引き下げられました。

そこで、本研究では、このような COVID-19 に対する重要な転換期を含む期間の人々のマスク着用率の変化を 2 つの異なる規範的観点から分析しました。一つは命令的規範(政府による勧告)、もう一つは記述的規範(他者の行動観察)であり、マスク着用に対するこれらの影響の強さを検討しました。

注意しなければならないのは、日本では法的にマスク着用が義務化されたことは一度もありません。これまで一貫してマスク着用は任意であったわけですが、政府や上の立場からの推奨という強いメッセージは、法的規制と同様な効果があったと思われます。これを本研究では命令的規範としています。

分析の結果、「政府が推奨している」という命令的規範や行動制限全体が緩和された後もマスク着用率が大きく低下することはなく、これらがマスク着用に及ぼした影響は小さいと考えられました。マスク着用の動機は、命令的規範の遵守というよりも、むしろ「私がしたいから」という個人の判断によるものであることがわかりました。

本研究では、作業仮説として、マスク着用はシステム正当化理論(社会システムや体制を合理化し、支持する心理的傾向)に従うかもしれないということも考えられていました。しかし、分析の結果は、2023 年 3 月の政府の緩和メッセージの前後を問わず、システム正当化動機と個人のマスク着用率との間に有意な関係を示しませんでした。

さらに、ルール緩和後に実施したクロスラグ・パネルモデル分析では、記述的規範と個人の行動との間に関係があることが示されました。しかし、個人のマスク着用行動に対する記述的規範の影響は、予想されたほど顕著ではありませんでした。

本研究は、公衆衛生危機における社会規範と個人の行動との相互作用の複雑さを浮き彫りにし、文化的素因を含む様々な要因を考慮することの重要性を強調しています。

2. 研究の解釈と意義

本研究は、2023 年のマスク着用の任意化、COVID-19 の 5 類化という重要な時期を含む流行波に絞って、マスク着用率の変化を分析しています。それによって、COVID-19 パンデミック期における公的な場での日本人のマスク着用行動に及ぼした 2 つの社会規範の影響を効果的に調べることができたと言えます。

結論として、個人のマスク着用率は、規則緩和や行動制限の全体的な緩和によって劇的に減少することはなく、緩和後のマスク着用は、命令に従おうとする心理によって説明できるものではなかったということです。

この観察結果は、世論調査の結果とも一致しています。今回のパネル調査のサンプルには人口統計学的な代表性はありませんが、マスク着用率という重要な従属変数に深刻な偏りが生じることはなかったと考えられます。

システム正当化の傾向は、命令規範が存在した 2023 年 2 月以前も、命令規範撤廃後の2023 年 5 月以降でも、マスク着用行動に有意な影響を与えませんでした。どちらの時期もマスク着用率が非常に高かったことを考慮すると、パンデミック時期におけるマスク着用率の高さは、命令規範の遵守(お上の命令だから逆らえない)というよりも、むしろ個人的な選択(マスクをしたいからする)によるものであった可能性が高いと考えられます。

それでも、この結果は、2023 年 3 月のマスク着用を個人の裁量に委ねるという方針転換が影響している可能性は否定できません。このことは、命令規範の有効性がその時点ですでに大幅に低下していた可能性を示唆しており、それが制度正当化との正の相関の欠如につながっている可能性もあります。

この点で本研究でのアプローチは、二つの限界性があります。一つは、2023 年 2 月以前の調査にはマスク着用率に関する質問が含まれていなかったため、上記の可能性を検証することはできないことです。もう一つは、ここでの命令規範は「推奨」であって「法的な縛り」ではなかったことにも起因するかもしれないということです。

記述的規範と個人の行動との関係は、個人の裁量をより重視する COVID-19 の法的分類変更後に強まり、この関連は半年の間持続していました。この発見は、具体的な命令規範が存在しない「平時」において、記述的規範と個人の社会的行動との関係が強固であることを示唆しています。

一方で、記述的規範(推定値)が個人の行動に及ぼす影響は有意かつ肯定的であったものの、その逆の影響に比べると比較的軽微でした。このことは、社会的な適合圧力によって人々の行動が劇的に変化することはなかったことを示唆しています。つまり、いわゆる同調圧力によってマスク着用が維持されたということもないということです。

この現象は、日本が他国に比べてマスク着用に対する心理的抵抗が歴史的に低いことと関係しているのかもしれません。もともと英国で呼吸器疾患用の「レスピレーター」として開発されたものが日本に導入されたのは、19 世紀後半にさかのぼります。当時から、マスクは感染予防のみならず、防塵・防寒・衛生管理など、一般市民が使用するアイテムとして扱われてきました。

これらに加え、大気汚染、花粉症、国民性からくる行動などの日本特有の事情も影響しているでしょう。たとえば、健康上の理由だけでなく、社会的不安(特に他人に見られる不安)を軽減するために顔を隠す手段としてマスクを着用する例もあります。

上記のように、COVID-19 パンデミック以前から、多くの日本人にとってマスク着用は身近な習慣でした。本研究で報告されたパンデミック前の平均マスク着用率は42.6%(SD = 39.91)であり、25.2%が「0%」、20.3%が「100%」と回答しており、二極化の傾向が見られます。このような歴史的背景が、社会規範とマスク着用行動の関係に影響を与え、パンデミックという特別な時期の規範と行動の関連性を弱めている可能性があります。

本研究は一つの症例報告としての価値はありますが、感染予防行動と社会規範の関係についての一般的な洞察を提供するという観点から見ると限界があります。前述したように、マスク着用が身近な習慣であることの影響は否定できません。この観点からは、数々の推奨キャンペーンにもかかわらず習慣化されていない手指衛生が有力な代替テーマとなり得たかもしれません。

翻訳を基にした研究の紹介と意義は以上のとおりです。

筆者あとがき

三浦教授らの研究は、いくつかの限界を認識しつつも、COVID-19 パンデミック時の日本における社会規範とマスク着用行動との複雑な関係を明らかにする興味深いものになっています。日本では、規則が緩和された後もマスク着用の習慣が続いていることは、単純な遵守を超えた心理的・社会的要因が影響していることを示しています。

欧米では「マスクは病人がするもの」(つまりマスクは健康であることの否定)という認識があり、法的強制がない限り容易にマスクをしないという傾向があります。一方、日本では、歴史的にマスク着用が習慣化されているという事情が影響していることが、今回の研究でもあらためて指摘されています。マスク着用を否定する立場から、メディアや一部の政治家による、また SNS 上でも「欧米では誰もマスクをしていない」という声が聞かれますが、そもそもマスクに関する文化・習慣が異なる欧米と日本を比較すること自体が無意味だということになるでしょう。

今回の研究は、公衆衛生の危機における人々の行動のダイナミクスや、今後の公衆衛生戦略においては、このような社会規範の影響を考慮する必要性があることを示しています。科学的には、マスクは感染症の伝播予防のアイテムとして機能することが確立していますが、その観点から必要に応じてマスク着用をする「戦略的マスキング」が世界的に推奨されています。この取り組みがスムーズにいくかどうかは、その国の文化・習慣が大きく影響するということになるでしょう。

引用文献

[1] Miura, A. et al: Behind the mask: Analyzing the dual influence of social norms on pandemic behavior in Japan. Jon. J. Psychol. Res. Published: April 16, 2024. https://doi.org/10.1111/jpr.12520

[2] 大学ジャーナルオンライン編集部: アフターコロナでも日本人がマスク着用する理由は「規範」よりも「個人の判断」大阪大学. 大学ジャーナルONLINE 2023.05.03. https://univ-journal.jp/244209/?cn-reloaded=1

         

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